ライター伊達直太/取材後記2015

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取材後記 2015

選択肢について 12月某日 晴れ

メシを食うことに、私はほとんど興味がない。
美味いほうがよいが、まずくても別に構わない。年末のようにやることが多いときはとくに、カプセルとか点滴で栄養をとれないものかと切に思う。作る、食う、片付けることで時間を垂れ流している気がする。
1人暮らしだったら、多分毎日カップ麺か菓子パンを食べていただろう。つまり、そう感じつつも毎日メシを作るのは、そうしないと家族が腹を空かすからである。
基本的には面倒くさいと感じている。ただ、ごくたまにではあるが、ボウズが美味しいねと言ったりする。チビが無心にがっついていたりする。
そういう瞬間があると、作ってよかったと感じる。
自分はムダで無意味だと思っていることでも、やってみる価値がないわけではない。誰かが喜んでくれる可能性があるということである。
病気で死にかけたことがある人が、死をリアルに意識すると、自分にとって本当に大切なものが見えてくると言っていた。健康なときは、あれもこれもやりたいと思う。活動領域を広げていきたい。一方、死が見えると、あれとこれはやらないでよいかと考える。活動領域を、自分の大切なものに絞っていく。そういう話である。
私は近年、だいぶ絞ってきたと思う。
ムダで無意味だと思うことをやらないようにしてきた。
でも、死ぬわけじゃない。死を意識することもほとんどない。
ならば、ここらで方向転換して、もう一度広げていくことにしようか。
やりたいことがたくさんあるにも係らず、命という制限によってそれができなくなる人が世の中にいるとすれば、きわめて健康体である私としては、やれることを何でもやるというのが、彼らに対する礼儀であるような気がする。
できる、できないという選択肢はある。
しかし、やる、やらないという選択肢はあまり考えない方がいい。

反省について 12月某日 晴れ

世間を知らない私が言うのもおかしな話だが、世間一般として、多分父親というのは子どもに甘い。
私も例にもれず、甘いほうだと思う。サラリーマンの人とちがって近いところにいる時間は多いので、叱ることもそれなりにはあるが、甘やかすことはもっと多い。お菓子を買うし、おもちゃも買う。
子どもが欲しがるものは価格もたかが知れているので、何となく買う。取材帰りや夕飯の買い物に出たときなどに、何となく買う。
ただ、それで子どもが喜んでいるかというと、そうとは言えない。
子どもとしては、ホントは一緒にお菓子を買いに行ったり、一緒におもちゃを選んだり、買ったおもちゃで一緒に遊んだりすることを望んでいる。一緒というのが、おそらく喜びの源泉である。
それはわかっている。だいぶ前からわかっている。
わかっているけれど、仕事を言い訳にしている。何かを買うことで、ごまかしている。
父親の第一のミッションは稼ぐことである(と私は思っている)が、それは優先順位が高いということであって、それだけやればよいという意味ではない。
それが父親としての今年の総括であり反省である。
物書きとしての目標はとくにないが(ないのかよ)、父親としてはもう少し高いところを目指したいので、これから公園で一緒に遊んでくることにする。
今日は寒いぜ。

信用について 12月某日 晴れ

信用は一日で築けない。
ある夜、建て玉余力を確認したら、思っていたよりも多い額の余力があった。
かなり多い。こんなに建てていいんだっけ。
自分の投資の技術・知識レベルを考えれば、幼稚園児に札束を渡すようなもんである。
その口座にどれくらい入れてあるのかちゃんと把握していないが(ここが幼稚園児レベル)、目安3倍と考えても、やっぱり多い。
気になったので調べたところ、証券会社のサイトがおかしかったらしい。
夜だったので注文は通らないが、これが日中だったらどうなっていただろう。
ちょこちょこ売買していると、10枚で注文したはずが、100枚になっていたりすることがある(ここも幼稚園児レベル)。
当然、普通であれば「余力が足らねえよ貧乏人」という主旨のエラーメッセージが出るのだが、バグっている最中なら通ってしまうかもしれない。これは怖い。
来年は、せめて小学生レベルにまで成長したい。
12月なので来年に向けた抱負を考えたところ、思いついたのは、そんなことである。
早く小学生になりたいなあ。
そう思っている幼稚園児である。

権利と義務について 12月某日 晴れ

権利と義務は表裏一体である。
義務を果たさないなら権利はあげません。それはわかる。働かざるもの食うべからずであるから、働かないなら給料はない。
一般論として、それはそれでいいとしよう。
では、国民として与えられる権利はどうか。我々は憲法によって権利が保証されている。でも、そのなかにはいらない権利もある。私の場合、投票権とかはいらない。でも与えられている。与えられているから、義務も発生している。
つまり、あらゆる権利を詰め込んだパッケージ商品のようなものがあって、バラ売りはしてくれない。だから、払うほうも一律固定のパッケージ料金を払う。
あるいは、注文したつもりはないが、パッケージ商品が届く。受け取るしかないので義務という対価を払う。そういう構図に見えなくもない。
そういう構図に見えちゃうと、押し売りに見えちゃったりもする。
一般論として、それはそれでいいのだろうか。
よくないと思っていて、しかし、それをうまく表現できなかったり、表現する気がない人が、ニートなのではないかと思う。
専業主婦志向が高まっているといわれるのも、そういうことなのではないか。
見方によれば、専業主婦とニートのライフスタイルには共通する部分が多い。一般的にはニートは蔑まれ、専業主婦は憧れられる。しかし個人的には、あまり差はないと思っている。
世間の主婦の人に怒られそうだが、悪く言うつもりはない。なにしろ拙宅は、私がニートのようであるし、カミさんは専業主婦である。
ニートを蔑んだり専業主婦に憧れる人はどういう人なのだろうか。ひとことでいうと、彼らとライフスタイルが大きく違う人である。権利一式のパッケージ商品を義務で買うことに何の疑問もない人といってもいいかもしれない。
彼らはきっと、満員電車に揺られて、残業をして、上司とかお客の相手をして、お金をもらいつつ納税するのが当然だと思っている。その過程では、やっぱり嫌なこともある。自分は苦労しているのだと思っている。
だから、一方になにも生産していない人がいると、蔑んだり憧れたりする。義務を果たしていないように見える人に腹を立てる。
他人の価値観だからどうでもよいことだが、それならこっちの価値観も放っておくのが筋だろう。多数決では勝ちでも、時代は多様性である。
いつか自分が引退したり、病気で要介護になったときに、意外とニートや専業主婦の感覚がわかるのではないか。リタイヤした人も要介護の人も、生活パターンだけを切り取って見ればニートと差はない。個人的にはそう思う。ニートと一緒にするなと怒るなら、それはやっぱり、ニートを蔑んでいるということである。
そういう人ほど、労働人口から外れたときに、権利を減らしていいから義務も減らしてほしいと思うのではないか。他人に義務を押し付けようとしていた過去の自分の主張が偏っていたことも、そのときになって気づいて、何も言わなくなるのではないかと思う。

ポジティブとネガティブについて 12月某日 晴れ

ポジティブな人やポジティブ思考は基本的には人気がある。
私は、なんとなく気持ち悪さを感じるが、人気があるのは事実だ。
一方で、それってポジティブというのかと疑問を感じることもある。たとえば、バツ6で、次の出会いが楽しみとかいっている人は、ポジティブというよりも学習能力がないのではないかと思う。
恋愛は需給だから、どこかでマッチすることはあるだろう。誰が買うんだと思うような服だって、買う人はいるものだ。
ポジティブな人は、自分を信じるという意識が強い。
自分を疑っているのであれば、自分を客観的に見ている可能性があるから、信頼できそうな気がする。
しかし、自分を信じているという場合は、基本的には思い込みである。
信じるという時点で、神頼みの感じがあり、宗教の香りがする。私がなんとなく気持ち悪く感じる原因は、そこである。
世界のどこかに、ありのままの自分を愛してくれる人がいる。ポジティブな人はそう信じている。ありのままの非道い姿をさらしても、どこかで需給がマッチすると信じている。
マッチするかもしれない。でも、しない確率のほうが高そうだ。
ならば、確率を高めるために、神頼みの前に、できることがあるのではないか。私はそう思う。だから私は、ポジティブな人を信用しない。手を抜いていそうだからである。
ならばネガティブがよいかというと、そんなこともない。ネガティブな人は、自分はネガティブなんでと自虐的に認めることが、あらゆる努力を放棄する言い訳になると思っている節がるように感じるからである。
だから私は、ネガティブな人も信用しない。ポジティブの人以上に手を抜きそうだからである。
重要なのは、ポジティブでもネガティブでもなくニュートラルであり続けることである。大事なことだが、あまり知られていないのではないかと思う。

取り返したことについて 12月某日 晴れ

どうやらダチョウ倶楽部流「押すなよ」戦法で利確をがまんしたのがよかったらしい。
そこに運も加わって、2バガ、3バガがいくつかとれた結果、8月末のドロー分を、ようやく取り返し終わった。
月単位で見ると、久しぶりの7桁勝ちになったので、自分としては11月はよい月であった。
むろん、それでようやく「取り返した」わけだから、それくらい大きく食らっていたということである。返してくれてありがとう。
しかしながら、3日くらいで食らった損を、3カ月かけて取り返すことになるとは、この世界は厳しい。
まあ、そんなことを考えても仕方がないので、このペースで年末に向かいたい。そう思ってカレンダーを見たら、あと1月しかない。現状ほぼノーポジなのだが、これから何かさがせば、もうちょっと伸びるかもしれない。
そう思い、調子良く伸びそうなIPOを見ていたら、あれよあれよという間に方向転換して落ちていった。あぶない。アブネスチャンである。
ならば好決算だったこれはどうだと思ってみていたら、同じような角度で落ちていった。再びアブネスチャンである。
もしや下か。ここからは売ったほうがよいのではないか。そう思ってベア系を探していたら、急にNKが2万近くまで上がった。アブネスチャンは、でしゃばりだ。
そういうことをやりながらハラハラしつつも、ノーポジなのでお金は減らない。最強である。かといって、アブネスチャンの顔がちらつくせいで、なかなか思い切りがつかない。無収入だ。なので、今日はこっちの口座からあっちの口座にお金を移した。意味はない。気分転換である。無事生還した諭吉部隊に、しばし休息を与えよう。

モテることについて 11月某日 晴れ

どういうわけか、モテモテである。
昔から、割とモテるほうではあったが、最近は異常だ。
たとえば先日は、中学の同級生だったというカトウとかサトウという女子がメールを送ってきて、久しぶりに会いたいという。
私は日本の中学校に通っておらず、同級生にカトウもサトウもいないのだが、まあ誰かは知らぬが人気があるのはよいことである。
そうかと思えば、近所に住んでいるというハタチくらいの女性とか、以前会ったことがある調理師とか看護婦の女性から、エロいお誘いのメールもいっぱいくる。内容をここでさらすのは下品だからやめておくが、要約すると、いまから遊ぼうという内容である。
どういう経緯で私と近所であることがわかったのかは謎だが、まあモテて悪い気はしない。過去に調理師や看護婦と会った記憶もないが、きっと私が忘れているだけだろう。
そういうメールを1つひとつ丁寧に「削除済みアイテム」というボックスに移動させながら、はたして誰が、何の目的でこういうメールを送るのかが大変気になっている。
仮に迷惑メールだとしたら(仮にね)、そんなもんに引っかかる人はいるのか。
引っかかる人がいたとして、はたしてどうやって儲けるのか。
どういうビジネスモデルか、誰か教えてくれないか。
そういえば、振り込め詐欺とか投資詐欺に引っかかる人も後を絶たないらしい。
世の中にはきっと、相手の言うことを微塵も疑わない聖人君子みたいな人がいるのだろう。すれ違う人が全員敵であると考える私には、別世界すぎて理解不能である。
世の中から悪が滅びたことはない。ということは、被害者がいない世の中になったこともないということである。
悪人面で、思考も悪である私がいうことではないが、それって意外と恐ろしいことではないか。
割れ窓理論的にいうと、小さな悪の芽を摘むことが、大きな悪の防止につながる。その意味で、ポイ捨て禁止や自転車盗注意の呼びかけも大事ではあると思うが、ネット社会であることを考えれば、迷惑メールを徹底してなくすことが、被害者がいない世の中に近づく目下の施策であるように思う。

性善説について 11月某日 晴れ

カミさんがカギをなくした。
今回はカギだけであったが、つい先日はカギと財布を一緒になくしたばかりである。どうやら道で落としたらしい。
こういうことは、世間一般ではよくあるのかもしれない。
しかし、私には驚きである。過去何十年か生きてきたなかで、いわゆる貴重品をなくした経験は一度もない。落とすということが、まず考えられん。代わりに、記憶はよくなくしている。理性はさらに頻繁になくしている。
落とすことは仕方がない。ここで言いたいのは、毎度しっかり、落としたものが戻ってくるということである。
今回落としたカギは、誰かが交番に届けてくれたらしい。
前回落としたカギと財布は、拾った人がわざわざ拙宅まで届けてくれた。
こういうことも、世間一般ではよくあることなのかもしれない。しかし、私には驚きである。日本人は素晴らしいというありきたりな感想しか出ないが、日本国内で暮らすのであれば、性善説を基本としてよいのではないかとも思う。

プチバブルについて 11月某日 晴れ

8月末のチャイナショックは「なかったこと」という共通理解でよいのか。
日経はもどりつつある。ダウも安定している。
振り返ってみれば、じっとしているのが正解であった。
値段だけ見れば数カ月前となんら変わりない。平時である。平穏である。通常営業である。
ただひとつ違うことは、私の口座の残高がごっそり減ったことだ。
「あれは何だったんだ」とつくづく思う。
前回は調子に乗っていたせいで大きな下げに頭から尻尾まで付き合わされた。
次は上げの尻尾から頭に付き合いたい。この際、上げであれば、尻尾と頭はくれてやってもよい。我ながら謙虚じゃないか。
その方法で悩むことが、じつはリスク管理ということなのではないかと、いまさらながらに思う。
それはそうと、削られた残高をフル回転させてボロ値になった銘柄をちょこちょこと拾っていたら、「なかったこと」にしようとする流れが追い風となり、プチバブルがやってきた。
ありがたいことに本業が忙しいのでじっくりと相場は見ていないが、1日数パーセントずつ資産が増える相場がきている。
現状、ドロー分に比べればお釣り程度にしかなっていないが、上がるものは、上がるとき、すんなり上がるものだ。
そしていま、私は少々迷っている。
いまある利をいつ現金化すればよいか迷っているのである。
じつに贅沢だ。私が求めていたのは、こういう迷える状況なのである。
ということで、もう少々この贅沢な環境に浸りたいので、現金化は先送りする。
決済のボタンをクリックしたい気持ちを、全身全霊で抑える。
クリックすればなかなかの利益が確定するが、まだしない。
なかなかの利益とは、金額的に、今年の月単位で最高の額だが、それでも、まだしない。
しないつもりである。
押すなよ。
いいか、押すなよ。
自分のギャンブル投資の実力が、ダチョウ倶楽部レベルにまで近づいていることがうれしい。

You Sayについて 11月某日 晴れ

YouSayトリオのなかで、もっともスタートダッシュがすばらしかったのは、私が一番いらないと思っていたかんぽであった。
なかなかの勢いである。さらにぶっ飛ぶとは思わないが、そこそこ伸びそうである。
こういう相場は、見ていて楽しい。基本的には誰も損していないというのがよいではないか。
ただし、私の手元にはもうない。
一方、きっと伸びるだろうと期待していた郵便屋さんは、いまいち上がらない。かんぽと比べるからかもしれないが、勢いがない。
これも、いまのところは全員ハッピー相場であるが、案外、初値割りも意外と近いのではないか。そういうやつを、もっとも長く持っていたのが私である。
ようするに、JoJoを機に売ったやつと、寄ったところで買ったやつの選択が逆であったということだ。
誰でも勝てるお祭りのなかで、ほんのちょっとしか勝てない下手くそがここにいる。
狙いどころや読みどころがずれているようなので長居は無用である。
ということで、郵便屋さんも微益でおしまいにして、私のお祭りは終わりである。
そんな数日を経て、NKが連日の陽線である。
陽線にしなければならない何かがあるのだろうか。
そういえば以前、ある議員と話をする機会があった。
そのかたはYouSay JoJoに関連するなんとか委員会に入っているらしく、これは成功させなければならないというようなことをおっしゃっていた。国策というやつである。
思惑通り、スタートダッシュは成功した。先のことは知らないが、私はもう飽きた。お祭りは、神輿を担ぐ人よりも、まわりでたこ焼きとかを食いながら、見ているほうが多分楽しい。そう思い込むことにする。

仲間はずれについて 10月某日 晴れ

リンゴ、バナナ、イチゴ、イヌのなかで、仲間はずれはどれか。
そういう問題を、ボウズはやっているらしい。考える力は、類似点や相違点を探したり、因果を結びつけることが多分基本にあるだろうから、そのような力を鍛えるレッスンは大切なのだと思う。
それはいいんだけど「仲間はずれ」という見方はどうなのか。
リンゴやイスといった振り分けの基準となる「違い」を、肌の色、身体的特徴、学歴、年齢、出自、国籍、収入レベルといったことに置き換えてみれば、私が何を気にしているかおそらくわかってもらえるだろう。いじめ、差別、派閥といった分類基準を持つ人の思考力が、幼稚園レベルから成長していないということである。つまり、違いはわかるが、違うことの意味がわかっていない。
表現の問題だとすれば、もしかしたら、リンゴ、バナナ、イチゴ、イヌのなかで「スペシャル」なものはどれかという設問にしたら、多少は意識付けが変わるのかもしれない。言葉を替えるだけでは表面的な対応にしかならないが、言葉が与える印象は案外大きい。言葉の商売をしているから、そこはよくわかる。
多様性が重要な時代である。
生物の多様性も維持・促進する必要があるし、組織にとってもダイバーシティが武器だ。
ただ、そういうマインドの大切さを中年に向かって訴えても多分効果は限定的である。効果がないわけではないだろうが、派閥のなかに生き、多数決のマジョリティに属していることに安心して生きてきた人生を、あるいはそのなかで培ってきた価値観を、根本的に見直さなければならない。年くっている人ほど、それが面倒であるはずだから、厭わずにできる人は少ない。見方を変えれば、それができるごくわずかの人が、これからの時代で活躍し、偉くなれる。
一方、子どもや若い人は、その点で柔軟である。変化への対応力と吸収力がある。そもそも人生や、自分なりの価値観が形成されてきた歴史が浅いから、見直す手間と労力が小さく済む。
そう考えれば、やっぱり若い人に向けた教育は大切である。
市場に限らず、あらゆるものが飽和状態にあるなかで、新しい価値を生み出すことは困難だ。その難しいことを成し遂げられるのは、多様性を重要視できる若い人だろう。
誰もが何かしらの才能を持っている。しかし、その才能を表面化し、発揮するためにも、やっぱり多様性に目を向ける必要である。自分がまわりと「同じだから安心」と思うのではなく、「違うから有利」と見る視点が求められるからだ。
仲間はずれを見つけて終わる教育と、もう一歩掘り下げて、どこが、どう違うかを考える教育は、きっと人材の差を生み出す。
競合やライバルとの比較のなかで、自社や自分の強みが何かを考えて終わる会社・個人と、その違いをどう生かし、どう伸ばせるかを考える会社・人も、数年後にはきっと違うステージにいることだろう。
尚、拙宅ではいま「リンゴ、バナナ、イチゴ、イヌのなかで、仲間はずれはどれだ」といった質問を私が出し、ボウズが答えるというゲームが流行中である。メシどき、風呂、寝る前などで、しょっちゅうやっている。ただ、他人がいる公の場所で「オトーサン、仲間はずれゲームやって」と大声で言うのはやめてもらいたい。人聞きが悪い。

結果と結果論について 10月某日 晴れ

指数はワープする。
寝しなにNYを見たら-200でシメシメと思っていたら、起きたら+200になっていてオイオイである。夢から覚めるとは、まさにこういうことをいう。当然、NYと仲良しのNKも上にワープして始まる。清々しく目覚めて微益を確保しようと思っていたら、微損を切るハメになった。ゼロからのスタートという表現はよく聞くが、最近マイナスからスタートすることが多い。
NYは強いように見える。NKは、じつはそれほどでもない(と思う)。だから、そろそろ落ちてもいい頃合いだと思うのだが、しぶとい。
そういうことを書くと非国民に思われるかもしれないが、そうではない。
かつての右翼的ポジがちょっとニュートラルに戻ったくらいである。シソーに敏感な怖い人が見ていたら嫌だから、一応言っておこう。
安心してください。買ってますよ。
そういうバランスなので、じつは下げても上げても、どっちでもいい。守り第一のバランスが功を奏したのか、極少の利が細かく重なって、9月のギャンブルトレードはプラスになった。8月末のドローダウン分には文字通り桁違いに遠いが、なんだかわからない相場で結果として勝てたのは意外とうれしい。うれしいけど、問題でもある。「そろそろ落ちる」という根本的な読みが外れているからである。
それがわかっているから、やり方も小賢しくちょこちょこ変えている。意識も変えた。もっとも大きいのは、失敗してもいいからやってみようというのをやめたことだろう。そう考えることで、潜在意識が失敗を呼ぶと思ったからである。フロイト的失言みたいなものだ。
「失敗してもいいじゃん」「無理を承知でやってみようよ」と考え、行動しようとしている人がいるとしたら、きわめて個人的な経験からいうと、それはやめたほうがいい。潜在意識の作用については前述のとおりだが(私は学者じゃないので詳細は知らないが)、「いいじゃん」「やってみようよ」という結論ありきになっている時点で、多分だけど思考停止になっている。
もうちょっといいだけ案が、もうちょっとだけ深く考えたところにある。
相場や本の売上のように、結果論でしか語れないものを、結果ありきで語るということが、そもそも矛盾しているのかもしれないということである。

活躍について 10月某日 晴れ

一億総活躍であるそうだ。
マジか、と感じた人は少なくないはずである。
「別に活躍したいと思ってねえよ」と感じた人もいることだろう。「オクニのためにやってるわけじぇねえし」と思う人もいるはずだ。
私はそう思っている。全員が笑顔で、やりたいことをやっている社会は、見方によってはアッチの世界であり、気持ちが悪い。そもそも、全員がやりたいことができ、望むような活躍ができるということが幻想であるとも思う。
いい加減、右へならえ的な発想はやめないか。幻想は、創造のヒントとしては大事かもしれないが、現実はもっと大事だ。
ところで、私も「一億」のなかに含まれているのだろうか。できれば外してもらいたいのだが、そういう場合は誰に言えばいいのだろう。国勢調査に回答しないというのが、もしかして離脱の手段だったのかもしれない。
そういう屁理屈をこねつつ、与えられた仕事をこなし、はからずも「活躍」しているなかで、つい最近も似たようなことを感じたなあと思い出した。
それは、五輪のエンブレム関連で「一般国民」という言葉が出たときのことだった。
一般国民とは誰のことか。誰が一般で、誰が一般ではないのか。その線引きが知りたいと、割と真面目に思った。疑惑のデザイナーも、普通の日本国民であるとすれば、もしかしたら一般国民の1人なのではないか。そうなると「一般国民の理解が得られない」という理由が通らなくなる。大勢の人をひとくくりにするとや、ひとくくりにした人たちに呼び名をつけると、こういうことになる。分類や線引きは、思っているよりもデリケートな問題なのだ。
話の次元は大きく下がるが、芸能人が結婚したときなどにも「相手は一般人」という表現がよく使われる。当然、一般人とはどういう人かという話になるだろう。私はそう思うのだが、全く話題にならないのが不思議である。
おそらくこういう線引きがなされている背景には、芸能およびその近くで仕事をしているギョーカイ人で特別な人たち、そして、そこに含まれていない人が一般人という特権意識的な考えがあるのだろう。
嫌な感じではあるが、本音をいえば、そういう意識を持つ人たちが積極的に活躍して、たくさん稼いで、たくさん納税して、一般国民と一般人の役に立ってくれればよいと思う。むしろ、ありがたい。
まわりがどう見ていようが、じつはそんなことはどうでもいいと思うんだけどね。大切な誰かにとって「特別」な存在で、その誰からから見て「活躍」しているように見えれば、それで十分に幸せだとも思う。
と、書いてみたら、なんだか安っぽい歌詞のようである。
いまさらながら物書きとしての才能を疑いたくなった。
期待通りの「活躍」ができるか、非常に不安だ。

道徳について 10月某日 晴れ

東大卒の方、京大卒の方に連続して取材する機会があった。
賢い方々であった。そして、話もわかりやすかった。私にも理解できるように噛み砕いて話してくれるからである。その心遣いがうれしいではないか。
割とよく感じることなのだが、私が現場で会う人たちは、社長、先生、リーダーといった立場にいて(そういう人と会うのが私の仕事だからね)、そして彼らは賢さとやさしさを併せ持っている。賢いから、相手を気遣うことができる。やさしくなれる。やさしい人のまわりには多くの人が集まる。そこで新たな知恵・知識が身につく。そういう上昇スパイラルのなかで生きている。
当然、上昇スパイラルにはお金もついてくる。ドラッカーがいうように世の中は知識社会であるからである。
ならば、上昇スパイラルに乗れない原因は、賢さとやさしさのどちらか、または両方が欠けているからということになる。方翼では高くは飛べず、翼がなければもちろん飛べない。実際、世の中には賢いけど冷たい人がいて、馬鹿だけどやさしい人もいる。馬鹿で、しかも冷たい人もいる。これは私である。だから、両方必要だと思うのだが、どちらから手を付ければよいのか悩む。
学歴フィルターがかかる年齢を通り越している身としては、おそらくやさしさが先なのだろう。賢さを知識、やさしさを道徳と置き換えると、私は多分、道徳を勉強するところから始めるのが上昇スパイラルの入り口であるということだ。でも、道徳って何だろう。
そういうことを考えていたら、エシカル消費に関する仕事の依頼がきた。
エシカルとは道徳的という意味である。まったくの偶然であるが、偶然とは不思議なものである。
道、人、天にツバを吐きながらの人生で、過去に消費と道徳を結びつけて考えたことはない。買い物の基準は「安いほどよい」であり、まるでバリュー投資家のようであった。
しかし、詳しく話を聞いた方によれば「これからはエシカル」なのだそうである。売り手も買い手もエシカルであるそうだ。
ならば、私も今日からエシカルに乗る。とりあえず乗っかれば、何かよいことがありそうだ。
そういう邪な考えを持ちながら、仕事場でコソコソと啜るフェアトレードのコーヒーは、ちょっとだけ上昇スパイラルの香りがした。

ライターとニート 10月某日 晴れ

取材や打合せがない限り、物書き商売の日常はニートのそれときわめて近い。
自宅警備員とはよくいったものである。
拙宅にはちょこちょこやってくるセールスとか勧誘などを斥けるのが私の主な役目といってもよいだろう。過去に3人くらい刺したことがありそうな死んだ魚の目が、こういうときに役立つ。
実態はそういうもんであるが、ボウズは私が仕事をしていると思っている(まあ、してないことはないが)。理由はおそらく仕事部屋に籠っていることが多いからだろう。ボクはヨウチエンに行き、お父さんは仕事をする。それで、一緒に夜ご飯を食べ、風呂に入り、寝るというのが日常である。
ある夜、いつもの通り絵本を読み、部屋を暗くしてボウズが寝るのを待っていたら、ふいに「お父さんにお話があるんだよね」とボウズが言う。
暗闇のなか、まだ起きてたのかと思いつつ、一応、なんだ? と聞く。
「お父さんね、明日ビール買ったらいいよ」とボウズ。
「何で?」と私。
「だってさ、お父さんビール好きでしょ。いつも仕事して、がんばってるから、好きなもの買ったらいいと思うよ」とボウズ。
そういって、ボウズは寝た。
最初から寝ていて、寝ぼけていたのかもしれない。暗いからよくわからない。わからないのだけれど、とりあえず「ありがとう、早く寝ろ」と私は言った。それから暗闇のなかで、しばらく考え事をした。
ボウズが知る世界は、朝7時から夜9時くらいまでの世界である。だから、ボウズが寝た後で、私がリビングでビールをたしなんでいることを知らない。
ボウズには、私が好きなものを買わずに我慢しているように見えている。でも、それはほしいものがないからであって、別に我慢などしていない。
人は見た目が9割というのは、多分そういうことである。私は関係者の間でも、実態よりよく見られていることがおそらく多い。得な人生である。
それにしても幼稚園児というのは、何も考えていないようで、いろいろ考えているものであるらしい。これも、人を見た目で判断しているということなのだろう。

単純であることについて 9月某日 晴れ

国勢調査がネットで回答できるようになった。
便利になったことはすばらしいのだが、これに関して言えば、やればできるということが立証されたことがじつは大切であろう。
技術的には、面倒ではあるかもしれないが、できないはずがない。
やるか、やらないか。それが問題である。
国勢調査ができるなら、選挙もできるはずである。若い人にとってはそのほうがよいだろう。毎度のように若者の参政意識がとかいうのであれば、責めるべき相手も見えてくる。そういう状況のなかで「やれるのにやらない」のだとしたら、なぜやらないのかがポイントである。
何かをやろう(やらない)と意思決定する際には、インセンティブが働く。やったほうが得ならやるし、損ならやらない。意外と世の中はそれくらい単純な原理で動いているものである。
国勢調査を出した数日後、ある人のセミナーに行った。私は基本的にはその手のイベントに関心がないが、仕事であるからちゃんと聞く。ちゃんと聞いたら、なかなか勉強になった。食わず嫌いはよくない。
それはさておき、セミナーのなかで印象に残ったのは「たいていの問題は、もっとも単純な解決策がもっとも有効であることが多い」というものであった。松下幸之助は、それを「雨が降ったら傘をさす」という言葉で表現した。レインコートのほうがいいとか長靴もいるよねとか、そもそも家から出なきゃいいんじゃねとか、そういうことを考える前に、素直に現象と向き合い、濡れない方法を選択したほうがいいということである。経営の神がそういうのだから、いかなる商売も、おそらくそれくらい単純な原理で動いているのだろう。
ネットという複雑な仕組みを追求していったら、「やるか、やらないか」という単純な質問にたどりついた。
商売という複雑な仕組みを追求した人は、「雨を降ったら傘をさす」という単純な答えに行き着いた。
いずれも一周して、原点に戻っているということである。
さて、私は何に迷っているのだろうか。
みなさんは、どんなことを、どれだけ複雑に考えているのでしょうか。

感覚について 9月某日 晴れ

物書き商売は、基本的には頭を使う商売である。
頭がよいわけではない。
ただ、頭は使う。というよりも、身体はあまり使わない。
そういう仕事をしていると、頭で考えることと、身体が読み取る感覚がかみ合わないことがある。たとえば、初対面の人から仕事を引き受ける際に「おもしろそうだ」と感じることがある。それはおそらく、話し方、見た目、言葉遣いなどから感じ取っている。感覚優先なら、その仕事は受けるだろう。しかし一方で、頭の中では別のことを考える。この内容で、このギャランティは見合わないなどと判断する。感覚と頭、どちらを重視するかによって判断は逆になる。
こういうケースでは、感覚にしたがったほうが結果として満足することが多いような気がする。
感覚とはなにかというと、目の前にあるものをそのままとらえることである。おいしい、かわいい、こわい、すごいとかであろう。一方、頭で考えることというのは論理であり概念である。目の前の現実として実際には起きていないことについて、こうなるだろうと考える。利益や将来設計などは頭で考えることである。トレードでいえば、落ちるナイフは感覚的には「あぶない」ので逃げるか避けるが、指標的に反転しそうと頭で考えたなら買い増す。ここでもやっぱり判断が逆になる。
そんなことを考えながらボウズと近所を散歩していたら、ふと立ち止まり、夕暮れの空を見上げて「月だよ、月」という。
たしかにそこには月があり、見事な満月であった。目の前にあるものをそのままとらえるこというのは、多分、そういうことである。
いろんなことが、いろんな意味で限界だなと思うことがある。できないだろうとか、ダメだとか、こんなもんだろうという判断も頭から生まれる。きっと頭で考えているから、そう思うのであろう。
おもしろそうなんだけど、各種条件がいまいちの案件があって悩んでいたのだが、どうするか決めた。
あまり考えすぎてもいかんのだよね。頭が悪い私のような人はとくに。

雑音について 9月某日 晴れ

人は自分の聞きたい声を選んで聞いている、と言われる。
たとえば、褒め言葉は聞きたいが、批判は聞きたくないと思っていると、耳には褒め言葉だけが入ってくるというようなことである。
意識としては、そういうところがあるのだと思う。
嫌なこと、嫌いな人の意見などは、わざわざ「聞こえないフリ」をしなくても、耳に入ってこないことがある。
一方で、もっと日常的なところでも、同様の現象が起きているように思う。
さきほどリビングに戻ったら、ボウズはiPadで動画を見ていて、カミさんはテレビを見ていて、チビはピアノのおもちゃで鍵盤を叩いていた。それぞれが好き勝手に音を出している。私にしてみれば、音の大洪水である。
しかし、各人を観察してみると、それぞれが自分の聞きたい音を聞き取れているらしい。ボウズとカミさんは何の問題もなく楽しんでいる。お互いが発している音がまるで聞こえないかのようである。チビについてはよくわからないが、まあ楽しそうである。
私には3種類の音が混ざって聞こえるので、結局どれひとつ聞き取れない。でも、彼らは音の洪水のなかを、それぞれが自分の聞きたい音を見つけ、上手に泳いでいるというわけである。
ところで、私は常にラジオを聞きながら仕事をしている。
そのせいもあって、テレビはまったく見ず、新聞もまったく読まないが、ちょっとしたニュースはなぜか知っている。流行の洋楽も知っている。つまり、ラジオを聞いてないつもりで、聞いているのである。
そこで先日からラジオをつけずに仕事をするようにした。その結果、異常に能率(というかスピード)があがった。普段なら2週間くらいかかる膨大な量の仕事が、シルバーウィークといういつの間にか誕生していた連休の間にすべて終わった。
どうやら私の集中力は雑音によって低下するらしい。とてもいいことを発見した。
明日から耳栓して仕事をしようと思う。

作戦変更について 9月某日 晴れ

個別の値動きを見ていると、日経が上がっても反応しないか、一瞬吹き上がって戻ってくることが多い。基本は下向きに見えるのだが、いまから売っても下げ幅が小さそうだし、担がれそうな匂いもプンプンしている。
考えれば考えるほどわからなくなるので、今月は指数ものだけやっている。ボラもまあまああるし、上海と先物だけ見てれば何とかなるような気もする。
そもそも個別を狙う作戦は、選択と集中という考え方に基づくわけだが、それがうまくいくのは、集中すべきところの目星がついているときだけである。それが前提であるから、むやみに選択するとリスクだけでかくなる。
そう気づいたので(いまさら)、狙いどころをちょっと変更した。
ただ、たまにうまく乗れることもあるのだが、そういうやつに限ってポジが少なく、反対に動くやつに限って大きく持っていたり、レバレッジをかけていたりする。順張りで1万円取って、逆張りで5万円取られるとか、いったいそのお金がどこから出てくるんだろうか。我ながら不思議である。
順張りはちょっとしか取れず、逆張りは底抜ける。じゃあ、ナニ張りが正解なんだと思う。多分だけど、こういう時にもっとも損するのは意地っ張りだろう。あるいは欲張りかもしれない。いったん出金してみようか。
ところで、先月くらいから、ある証券アナリストの本の制作を手伝っている。相手は専門家だから、話を聞かせてもらうほど、自分が知らないことがたくさんあると気づかされる。名前は知っているけど使ったことがないテクニカルの指標も多いので、次はこれを使ってみるかと思うことも多い。私は基本的にはボリバンとMACDで見ているのだけど、最近は氏の影響を受けて一目に挑戦中である。ヒット&アウェイ戦法で細かくドロー分を取り返そうと思っていたのだが、ヒットするつもりが返り討ちばかりなので、さらに作戦を変更する。時間軸を長く見て、年末にかけてじわじわ上がりそうなやつを一目さんに教えてもらおう。
普段は物書き商売のよいところなどまったく感じないのだが、氏のような専門家に会えたり、そこで何かを考える機会が与えられているという点は大きなベネフィットである。この仕事の目的は字を書くことではない。日銭を稼ぐことでもない。成長することなのである。
最近、そんなことをよく思う。いままで年相応の成長をしてこなかったからである。

ドクターについて 8月某日 晴れ

ありがとう、プチリバウンド。
「リバなしだと追い込まれちゃうぜ」とビビっていたのだけれど、ちょっと戻ったので、そこで手持ちを損切り。NK三空にしては弱いリバだけど、ないよりはまし。そう思っている人が多分たくさんいるだろうから、さっさと投げる(逃げる)ことにした。取材を終えて、一服していた時のことである。
粘ればもう少し損額が小さくなるような気がしなくもないのだが、中国の様子がよくわからないし、とりあえずVIXが高いし、先行きがよくわからないので現金化することに決めた。
迷ったら攻めという方針だったのだけど、今回は守る。
基本は逆張りなので、暴落はごちそうなのだけど、今回はお腹いっぱいなのだと思い込んで、スルーする。
なぜなら、多分リスクとリターンが見合わないから。そして、そろそろ守らなければならない残高のラインが近いからである。つまり、それくらい大きく負けた週末であった。様子見しつつ勉強して、仕切り直す。自信あるときにまた大きく張ろう。
それはそうと、先日名古屋方面に出張したところ、名古屋駅のホームにドクターイエローがやってきた。「見ると幸せになる」というあれである。
しかも、走りすぎるのを見ただけではない。待っているホームにやってきて、止まった。幸せが目の前に止まったのである。
これはもしや、何かすごく素晴らしいことが起きるのではないかと期待したのだけど、現状はイエローではなく真っ赤である。やはり迷信は思い込みであり、噂は戯言に過ぎない。それとも、致命傷レベルが、両手・両足の複雑骨折程度で済んだことが、実はよかったことなのだろうか。だとすれば、ドクターイエローは名医である。
いまさらだが、医者は、医者になるためにものすごく勉強する。症状、表情、写真をみてどこが悪いかわかり、治療法を提示できるくらいまで勉強する。だから、収入が高い。むずかしいことをやっているのだから当然である。
ということは、投資で医者以上稼ぐためには、医者以上に勉強しなければならない。世の中は私が思っているほど甘くない。
おもしろい相場を目の前で見ることができた。先月のもおもしろかったが、今回のはさらに上である。その点については十分満足である。そう思い込むことにして、おかげさまでいっぱいたまっている仕事をすることにしよう。

チャイナショックについて 8月某日 晴れ

快挙の反対はなんて言うのだろうか。
辞書によれば、愚挙というらしい。
言葉としてのインパクトは弱いが、まさにそれである。愚かな判断であった。
2万円割れまでは想定していたものの、一気に19000円を割るとは考えが及ばなかった。わずか2営業日で、7%強となる約1500円の下落である。そういうことがあるということも、ちゃんと考えておかなければならない。
まだまだ甘い。相場はむずかしい。勉強しなければいけない。
何をやってしまったかというと、2万円を割れた時(金曜)に、「買っチャイナ」「攻めチャイナ」とか言いながら、リバ狙いの諭吉部隊を送り込んだのである。ギリシャのときは、それでうまくいった。その後の中国のときも、じつはまあまあ儲かった。しかし、今回は大はずれである。
振り返れば、金曜の値動きがリバなしのだだ下がりだったところで、いったん引き上げるべきだったのだろう。しかし「金曜だから弱いのだろう」というテキトーな判断により持ち越しを決断。
週が明けてみれば、マイナス900である。
実は、金曜に送り込んだのは先発隊で、まさかの一段下げに備えて後発隊となる第二部隊も準備していた。しかし、リバなし、買い手不在、夏枯れ、明日以降追証売りも出そうという下がる要素しか思い当たらないので、急遽、戦略を変更して後発隊の出動は見送り。
そして先発の諭吉部隊は棺桶の中となったわけである。死に顔はおそらく、野口英世のようであったと思う。
金曜は3700ちょっとある銘柄のなかで、3500が値下がりであった。つまり、買い方は95%くらいの確率で負けている。しかし、月曜はさらに厳しく、値上がりは70銘柄ほど。ベア系の投資信託をのぞけば、個別はほぼ全滅である。
そういうわけで、己の愚かさを恥じつつ、パンパンにふくれあがった在庫をコツコツと損切り。ちなみに、日経はマイナス5%ほどだが、調子こいて買い入れた在庫は平均マイナス15%ほどであった。
2万円前後がサポ線のボックスと見ていたけど、それが否定されてしまったので、あらためてトレンド分析からやり直しである。とはいえ、75日線も割っているし、ボリバン的にも下抜けている。セリクラの可能性もあるが、チャートを見る限り、どちらともいえない。
どこを基準と見ればよいのだろうか。
教えて、売っている人。

おっさんと老害について 8月某日 晴れ

20代半ばの人と仕事をする機会が増えた。
たまたまかもしれないが、あっちもこっちも、現場で会う人がこの世代である。一般的に彼らは、たっぷりの嫌味をこめて、ゆとり世代と言われる。しかし、私のまわりを見る限りでは、みなしっかりしている。少なくとも私よりはしっかりしている。20代半ば当時の私とはまるで比べ物にならない。
一方で、私より年上で、たとえば50代くらいの人と仕事をすることも多い。こちらは、優秀な人もいるのだけれど「マジか?」と思う人も結構いる。「50代といえば社会人として先輩だもんね」という期待値高めの前提で考えるからかもしれないけど、思わず眉をひそめたくなるようなことが結構あり、眉をひそめることもあり、他人事ながら、この人の部下とか後輩は大変だろうと同情する。
たとえば、昨年までやっていた案件の担当がそうであった。私は仕事でキレることはほとんどないが、その方に対しては、電話口で本気でキレたほどである。面と向かっていたら、おそらく回し蹴りを食らわせていただろう。おかげで、仕事は楽しかったが、なんだか疲れた。
たったそれだけの少ないサンプルではなんともいえないが、真面目で慎重で安定感ある仕事をする若手が底支えしつつ、上のほうではバブル世代前後の能無しが場を乱しているというような構図が見えなくもない。
そういうことを思っていたら「ベテラン社員をどう扱うか」というテーマの特集記事を作る仕事がきた。やはり、そういう構図は実際にあるのだろう。
記事作成にあたり、ある専門家と話をしていたら、通常はそういう人は放っておくのだという。組織改革をするにしても、若手の教育に重点を置いて、面倒なベテランには手をつけない。
個人的には、非常に納得できる話である。現状優先で考えれば、正直なところ、それしか方法がないのだと思うからである。
ただ、現状優先ということは、未来は後回しという意味でもある。だから、現状として困ったベテランが残る。そこから老害が生まれ、若手は本来なら不要なはずの残業をしたり、休日出勤するハメになる。アメリカだったらクビになっているような人が、日本では肩書きを持って普通に仕事をしているという現実は、多分問題である。老害のせいで、若手が転職する、辞めるという選択を迫られるとすれば、それも問題であるし、組織としても痛手である。
世代で物事を語るのはよいことではない。個人差はある。
そんなことは承知での上である。
でもなあ、なんかそういう構図が露骨だよなあ、というのが、組織に属さず、社会の隅っこから眺めている私の最近の感想である。話題となっている微妙な決算を出した会社や、その一群に入る大手は、平均年齢が40歳を越えている。四捨五入して50歳になるところも少なくない。新興の星と呼ばれるような企業と10歳くらいの差がある。もっとも、さらに老害インパクトが大きそうな人たちが永田町とか霞ヶ関にはいるわけだから、これは企業とか現場に限らない国家レベルの問題なのかもしれない。高齢化社会とは、つまりそういう問題のことを指しているのではないか。世間一般でおっさんが嫌われる原因も、うざい、くさい、面倒くさい、おもしろくないという表面的かつ直接的な原因があるのはもちろんだが、存在そのものが老害であるからという根本的な理由があるような気がしなくもない、と、おっさんは思う。

夏休みの過ごし方について 8月某日 晴れ

夏休みが近づき、関係各所の人たちから、どこ行くか、どう過ごすかという話を聞くようになった。
ある人は海外へ行き、ある人は帰省するらしい。
お金持ちサラリーマンのみなさんにはきわめて余計なお世話であるが「本当にいま行くの?」と貧乏個人は思う。なぜなら、あえてタイミングをズラしてみるというブルーオーシャン的な発想なら、安く収まることがほぼ確定だからである。
当然ながら、私はどこかに出かけるにしても、土日や連休を避けられる。避けられるから、避ける。そういう暮らしが長いから、平日が「定価」だと思っているし「土日祝は高い」と感じる。土日は割増料金を取られる感覚になる。1万円で買えるものを、2万円で買うのは損だ。だから、買わない(行かない)。
一方、サラリーマン目線でみると「平日が安い」ように見えるのだろう。つまり「土日が定価で、平日が安い」。そう捉えるので「安いほうがいいけど、まあ仕方ない」という感覚になる。土日の料金が「定価」だから、損した気持ちにはならない。要するに、平日と休日のどちらを「定価」と考えるか、ということである。
その点を単純に考えると、1週間のうち平日が5日、土日が2日であるから、平日の料金を「定価」と考えるのが自然ではないか。タクシーも、深夜早朝が割増になるのは、割増になる時間帯(7時間くらい)のほうが短いからだろう。
だとすれば、旅行会社やゴルフ場などの広告でよく目にする「平日割引」という表現も「平日が安い」のではなくて「休日が高い」のかもしれず、「平日割引」ではなく「休日割増」が正しい表現かもしれない。
そういう表現のマジックというかギミックがありそうだと考えると、余計に土日に動かなくなる。そのせいもあって、拙宅のお出かけは常に平日である。安定感は0点であるが、自由度は100点だ。だからカミさんには「ご主人は何をされているのですか」と聞かれたら「無職です」と答えなさいと言っている。

体調不良について 7月某日 晴れ

久しぶりに熱が出た。
体温を計ったら7度5分で、その後、9度5分くらいまで上がった。
鼻も咳も出ない。喉が痛むわけでもない。だから、風邪ではない。そもそも私は風邪をひかない。でも、熱だけが上がる。
じつは、こういうことは1年に1回くらいある。
疲れがたまってくると、突然高熱が出るのである。
そういえば昨年末くらいからまともに休んだ記憶がないから、くるならそろそろだろう。
9度を超えるのは珍しいので、一瞬、デングデング、ヤ〜マ〜ネ〜を疑ったが、私は蚊に刺されないので、やはり「いつものやつ」である。
そうこうしていたら、熱は翌々日には治まった。いつものやつは、ここで終焉である。
しかし今回は、その後で激しい頭痛がやってきた。
左側だけが猛烈に痛い。何していても痛い。鎮痛剤も効かない。バファリンもダメだし、セデスも無力である。
これはもしかしたらもしかするかもしれないので、じつに20年ぶりくらいに、自主的に病院に行った。長生きしたいとは思わないが、まだ死にたいとも思わない。でかい病気ならあきらめるが、もうちょっと生きたい。もうちょっとボウズらと遊びたい。
ということで、健康そうに見えるジジババに混じって2時間ほど待たされ、ようやく診てもらったドクターによれば「頭痛」であるそうだ。
そんなことは分かっている。2日前からわかっている。
クロスチョップをかましてやろうかと思ったが、頭が痛いので我慢である。
その後「念のためにCTでも撮りましょうか」と軽く提案されたので、言われるがまま別部署に送られ、ものものしい機械に寝かされ、禁断の脳の撮影をされた。日常的に考えている悪企みとかエロいことが写真に写らないか心配である。
そういう出来事があり、2日経った。
診てもらった安心感もあってか、頭痛がだんだん治まってきた。
何日か後に結果を聞きにいかなければならないが、すでに少々面倒である。
「珍しく頭を使ったせいですね」とか言われれば安心であるが、多分腹が立つので今度こそクロスチョップをする。
みなさんも健康には気をつけて、気になることがあれば、たまには病院に行ってみましょう、というお話。

モチベーションについて 7月某日 晴れ

取材が終わるごとに、資料とかメモをクリアフォルダーに入れて、机の脇に重ねていく。時間がある時に、それを締め切りが近い順番に淡々と原稿化していく。単純といえば単純な流れ作業である。流れる量と収入が比例するから、材料を持ってくるスピード(つまり受注力)と、原稿にする処理能力を高めていけばいい。
ただ、たいして人気者ではないはずだが受注力は高く、怠けているわけではないのだが処理能力は低いので、フォルダーはすぐに貯まる。結構貯まる。いまは雪崩寸前である。
しかも、そのファイルの山頂で、きわめて優れたバランス感覚をもつ猫(15歳)が寝ている。ヤツは私に「仕事をさせない派」である。
こういう時の選択肢は2つしかない。
1つは、猫をどけるという選択である。
ババア猫だから起こしたらかわいそうだとも思うが、いつも寝ているのだから、まあ構わんだろう。むしろ、猫が平和に寝ていられるのは、私が仕事をして稼ぐからであるから、寝不足を我慢するくらいの心意気が必要である。「仕事をさせない派」は、ここがわかっていない。そういう人は、世間にもいる。
もう1つは、仕事をあきらめて相場で遊ぶという選択である。通常はそうする。(それが処理能力が高まらない原因であることは、うっすら気づいている)
ただ、いまは自分の理解力をはるかに上回る乱高下をかましているから、下手に触ると大損ぶっこきそうでこわい。だから、遊びたいけど、気が乗らない。
猫を起こすこと(というか、仕事をすること)も気が乗らないが、それ以上に相場のほうが気が乗らないので、今日のところは消去法で、仕事をする。
そこで気づいたのだが、仮にトレードして損した場合、今日の仕事はただ働きはなるだろう。そう考えると、仕事をすることは損失回避といえなくもない。つまり、仕事でプラスで、仕事が忙しいおかげでさらにプラスだから、いまからやる仕事は、いつもの2倍くらいの金額に相当する。
そう考えたら、ちょっとやる気が回復した。
(この計算が間違いであることも、うっすら気づいている)。
これが、14時くらいのはなし。
その後、さっそく仕事をはじめたのだが、さっそくちょっとだけ遊びたくなったので、引けで少しだけお買い物をした。早め早めの気分転換をしたところで仕事に戻ったところ、明日が第二金曜(すなわちSQ)だったことを思い出して、早くも後悔している。
コツコツこなしている仕事のギャラが、明日には消えるかもしれないと思うと、いまの私のモチベーションは地を這うくらい低い。
かように、人のモチベーションというのは風見鶏である。いまさらながら、ロックの本でも読んでみようか。ついでにデシとかピンクも読もう。
誰か私に、強い心をくれ。

妄想の終わりと始まりについて 7月某日 晴れ

改訂版として追加発行していただいた拙著「パチンコ屋で学ぶ経済学」の保証印税(売れても売れなくても、これだけは払いますよ、という最低保証のお金)が今日あたり振り込まれるので、何か買うかなあと考えていた。
しかし、ギリシャが想定外の国民投票の結果を出し、必要以上に日本市場が反応したうえ、調子に乗って中国までこけたので、妄想は強制終了である。
もしかしたら、もしかして、ありうるかもしれない追証の準備資金としてとっておくことにする。
準備万端である。ギリシャでも中国でもなんでもこいである。
(ウソ。こないでください。お願いします)
ところで、デュレックスの調査によると、ギリシャ人の年間セックス回数は世界で最も多いらしい。「セックスしてる場合じゃねえよ」と、ユーログループの偉い人が言い、そう言われてもやることがないので、とりあえずセックスするギリシャ人という構図が頭に浮かぶ。ちょっと楽しい。いや、楽しくねえって。
つい先日も思ったことなのだが、底値の読みが甘い。見ているところが、どこかずれているはずである。微妙にではなく、多分根本的に。
そこを真剣に考えたい気持ちはあるのだが、スケジュール的に切羽詰まっている投資本の編集作業があるので、後回しにする。コツコツと負け続いている私が、この手の本の編集に携わってよいのだろうかという基本的な疑問もあるのだけれど、引き続き勝ちまくっている体で仕事を引き受けていくことにしよう。武士は腹が減っても、そうは見えないように振る舞うのが美学であるというようなことを、誰かにどこかで聞いた気もする。
ただ、空腹を我慢する武士よりも、セックスに興じるギリシャ人のほうがうらやましいというのが本音である。

デフォルトについて 6月某日 晴れ

「デフォなんてないさ、怖くなんかないさ」(おばけなんてないさ、の曲のメロディで)と口ずさみながら、密かに買い持ちを増やしていたら、急にデフォ危機がやってきた。
大きく叩かれて、もちろん逃げ遅れた。というよりも、買い持ちがどれも特売りだらけなので、逃げ道がない。月末までコツコツやってきたけれど、ドカンとやってしまいそうだ。ギャンブルだから仕方ないけれど、やはり持ち越しはおっかない。
底で買い集めてきたつもりだが、まだ下があったとは意外である。自分の感覚に、かなりショックを受けている。
「安い」と思った値段より下がるということは、相場観やセンスがないというより、すでに値ごろ感がおかしいのだろう。つまり、高いのか安いのか、それすらもよくわからない。
株ってどうやって勝つんだっけか。
さて、9時10分の時点で、値上がり140銘柄に対して、値下がり3370銘柄である。ここまでくると、ちょっと気持ちいい。
そして、ここで私は意味不明な決断をする。
板を見つつ、寄ったところからぶん投げようかと思っていた。しかし、どういうわけか、そこはかとなく寄り底の雰囲気を感じ、手仕舞いはいったん保留(マジか)。
そして、なぜか発想を大逆転させて、突如の買い増し連発。大量に買い込んで、いまに至る(ナゼだ)。
反射的にそういう暴挙に出た理由をあらためて考えてみると、どう見ても、やっぱりバーゲンにしか見えなかったからである。そして、みんなが売るなら、自分は買ってみようと思ったからである。
もうちょっと真面目に掘り下げると、おそらくギリシャがデフォったとしても、日本はじつは無関係であると思っているからだろう。
世間一般では日本経済も影響を受けるという説が信じられている。だから株価が下がるわけだが、私の浅はかな知識と見解によれば、これは怪奇現象に近い。その原因を作っているのは、危機感をあおることを第一の目的と位置づけて、それを楽しんでいるようにも見える過剰な報道だろうとも思う。
私が大金持ちの投資家なら、ギリシャなんてダメじゃん、その点、日本は安心だ、ということで、欧州向け資金を引き上げて日本にぶち込む。そうなるといいのだが、明日も順当に下がったらどうしようか。
さらに買っちゃいそうだから勘弁してください。

当たり前のことについて 6月某日 晴れ

時事に詳しいカミさんによれば、日本のどこかで「ドッジボールをやめよう」という案が出ているらしい。
理由は、いじめにつながるからであるそうだ。
じつにくだらない。もっとほかに議論すべきことがあるだろうにとカミさんと嘆きつつ、ふと小学校のときに地域の会のドッジボールでキャプテンをやったことを思い出した。リーグは低学年と高学年に分かれていて、私は6年生でキャプテンだった。チームには4年生の子もいて、彼らは当てられてしまうし、狙われるので、6年生が4年生たちを守り、市の大会で優勝した。
そこに何か大切なものがあるとすれば、強い子が弱い子を守るというメンタリティだろう。もはや当たり前のことすぎて、メンタリティという言葉を持ち出すまでもない。そして、その当たり前の感覚や意識を潰しているのは、教育であろう。あるいは、教育に口出しする大人である。
くだらないニュースのせいで、つまらない過去を思い出してしまった。

オトモダチについて 6月某日 晴れ

子どもは手加減を知らない。
「知らないから罪はない」というのが一般的な認識ではあるが、無罪だから「はいはい、どうぞ」と許せるというわけではないだろう。
SCなんかをうろついていると、雑に育っている子が他人に乱暴なことをしている光景をよく見る。たとえば、近くにいる子どもを叩いてみたり、よその子が使っているおもちゃを奪い取るといった光景である。大人であれば、暴行もしくは強奪である。しかし、子どもは無罪だから仕方がない。
こういう時、そのくそガキの親は、たいてい「オトモダチを叩いちゃダメよ」とか「オトモダチが使ってるおもちゃを取っちゃダメよ」みたいな叱り方をする。ヌルい叱り方だが、まあそれはいい。そちらにはあまり期待していない。
一方、叩かれたりおもちゃを奪われた被害者側の子の親はどう思うだろうか。
私なら「オトモダチじゃねえよ」と思う。
「都合よくトモダチにすんな」とも思う。
つまり、友達という言葉の定義が根本的に違うということである。
友達ってなんだ。友達がいないからよくわからない。
ただ、叩く人と叩かれる人、奪う人と奪われる人は、どういう解釈をしても友達ではないということはわかる。これは、子どもの世界に限らず、SCの出来事に限らず、社会一般に通用している。
日本とアメリカは友達だろうか。トモダチ作戦はうれしかった。でも、友達だからといって、オスプレイという危ないおもちゃは勝手に持ってきちゃだめよと言いたい人も多いのではないか。
友達は幻想である。私はじつはそう思っている。
友達がたくさんいたほうがいいという定説も、単純にメリット・デメリットで考えた場合にはそうかもしれないが、空論であるとも思っている。

たじろいだことについて 6月某日 晴れ

「すいませぇん」と、女性に声を掛けられた。打合せに向かう道すがら、昼間のギロッポンでのことである。
 甘ったるい声にワクワクして振り返ると、そこにいたのは私をにらみつける女性であった。身長160センチくらい。おそらく20代後半。口元は笑っているが、目はこちらを睨みつけている。
 はて、私が何をしたというのか。もしかしたら、健康な男が誰でもするように、チラ見したかもしれない。しかし、それはかわいい子限定で、彼女はかわいくない(オイオイ)。あるいは、やはり男の悲しい習性として、無意識にケツをガン見したかもしれない。しかし、それはイイケツ限定であり、彼女のケツはいまいちであった(コラコラ)。
 なんにせよ、メンチきられる理由はない。理由がわからずたじろいでいたら「アンケートに答えてほしい」と、意外なことを言われた。
 意味不明である。なぜ君は私を睨むのか。頼みごとがあるなら、頼むときの態度というものがあるだろう。たじろぐ私を気にすることなく、彼女は私をにらみ、そして甘い声で説明を続ける。
 そこでようやく気づいたのだが、彼女は私を睨んでいたのではないらしい。「上目づかいで見上げる表情」により「かわいくて健気な女子が頼みごとをしています」という姿を表現していたのである。
 誰か彼女に教えてやってはくれないか。
 上目づかいがかわいいのは、おメメぱっちりの子だけである。しかし、彼女のように舘ひろしくらい男前なくっきり一重の場合、上目づかいは、すなわちメンチである。早くその重要で悲しい事実を知って、やたらめっぽう道行く他人にメンチをきるのをやめなさい。
 尚、面倒くさいのでアンケートには答えなかった。かわいくてイイケツだったら、答えていたかもしれないけどね。

オサワリについて 5月某日 晴れ

「待ち人来らず」である。
セルインメイはどうなったのか。アノマリーは、やはりアノマリーに過ぎないのだろう。振り返れば5月の日経平均は調子良く上がった。締めくくりは12連騰である。
そういう知識めいたことを、ちゃんと知っている人は儲かり、中途半端に知っている人は損をするらしい。
この半月ぐらい、あらゆるところで担がれ、いろんなところで焼かれ、いたるところで踏まれた。とくに強烈だったのは、ボリバン3をオサワリしていたマイナンバー銘柄であった。
セオリー通りなら「ダメよん、そんなところ触っちゃ」と、市場がパチンと、できればガツンと叩いてくれる。だから張り切って売ったのだが、すぐに担がれ、損切りである。しかし、しつこい私はその後も懲りずに売る。そして、担がれ、踏む。それでも懲りずに売る。そして、担がれ、踏む。こういう自虐的ギャンブルトレードをくり返していたら、いい加減バカらしくなり、心もぽっきり折れた。その時には、10回売って9回踏んでいて、結局その日、叩いてくれるはずの待ち人は来なかった。
目をつぶって売買しても、確率的には50%くらいは当たるはずのものを、90%の確率で外すということがあるのだろうか。
どうやら、あるらしい。
ボリバン3の外をウロウロする確率が1%未満と言われるなかで、その極小の可能性を市場が見逃すというがあるのだろうか。
これも、あるらしい。
今の市場はオサワリに寛容である。私はそれを、自由に触らせるだけ触らせておいて、あとで怖い人が登場してぶちのめされる「美人局バブル」と捉えているのだが、読み違えかもしれない。もしかしたらマイナンバーが何たるかまったく知らないクセに、そういう銘柄を安易に触った私がいけなかったのかもしれない。
「触っちゃダメよ」は、実はテメエである。

備えについて 5月某日 晴れ

噴火も含めて、地震が多くなっている気がする。
私は学者ではないから深く正確なところは分からない。
しかし、コツコツドカンがありそうな気もするから準備をしておこう。
(もちろん、こんな想像は外れてくれるに限るが)
自分が、ではない。みなさんが、である。
水の備蓄はありますか?
カップ麺はありますか?
お菓子とか甘いものなども、ストレス緩和に繋がるので少しあった方がいいらしい。
小さい子がいるなら、おむつ、着替え、ミルクも用意しておこう。
ペットがいるなら、やつらのご飯も必要だ。
電池もあった方がよいだろう。スニーカーも出しやすいところに置いておこう。
車のガソリンも半分くらい入れておこう。
家族と離れた場合を考えて、集合場所もいまいちど確認しよう。
通帳とかハンコの場所も確認だ。
枕元には懐中電灯が必要だ。
倒れてきそうなもの、落ちてきそうなものはあるか。
高いところに飾ってあるものは下ろしてもよいのではないか。
備えあれば憂いなしである。
心の準備だけではなく、モノの準備が大切だ。

幻聴、幻覚、幻触について 5月某日 晴れ

知り合いがトンだらしい。
「トンだ」とは、ようするに周りに理由や行き先を連絡することなく、トンズラぶちかますというような意味である。その人がトンだ理由は知らない。仕事がきつかったのかもしれないし、人間関係かもしれない。あるいはお金とか恋愛といった個人的な事情という可能性もある。いずれにしても、当人には当人なりの、とぶに至る十分な理由があったのだろう。しかも、出版、編集、執筆のギョーカイでは、そういう人が珍しいわけでもないので、じつはあまり驚かない。私の周りでもすでに4人がトンでいる。内に籠りやすい仕事だし、忙しいし、その割には儲からないし、そういう環境だから、参ってしまう人がいても不思議ではない。真面目な人でなければ務まらないが、真面目すぎる人にも務まらない微妙な仕事である。フリーの商売は特にとびやすいかもしれない。忙しい時は徹夜になるので体力的に疲れ、暇だと儲からないから精神的に疲れるので、ちょうどよい塩梅というのがないからだ。
多分だけど、普通に仕事をしている人が突然とぶということは少なく、少なくとも当人としてはいくつかの段階を経てジャンプ台に乗ったはずである。私の場合で考えると、それは幻聴、幻覚、幻触という3段階になっていると思う。
幻聴は、ふとした時に名前を呼ばれる(というか、呼ばれた気がする)現象。幻覚は、誰もいるはずのない場所で人影を見る(見えたような気がする)現象である。正直なところ、これらの段階に進むことは年に何度もある。それだけに、当人としても慣れているから「ちょっと寝て休むか」で終わりである。カミさんに呼ばれる(呼ばれたような気がする)ことも多いが、カミさんも慣れっこだから「呼んでいません」「なんだ幻聴か」で終わりである。
幻触は、誰かに肩などを触られる現象のことで、年に1度か2度、かなり追い込まれている時に起きる。そして、私はじつはビビリであるから、かなり驚く。黙々とPCに向かっている時に幻触が起きると、決して大げさではなく飛び上がる。同時に、自分がかなり疲れていることを自覚する。
ただ、この段階まで行っても、私はとばない。なぜなら、過去にこの現象が起きた時のことを振り返ると、いずれもその後、何かが当たったり、何かを拾ったり、誰かと会ったりして、何かしらイイコトが起きるという法則を先日発見したからである。したがって、幻触はおっかないが、私は案外、待っているところがある。また、私は下世話で根が卑しいから、せっかく行くとこまで行き着いたのに、とんだら何のご褒美ももらえないと考える。再度平常な状態に戻り、もう一回幻触まで追い込まれたら、またイイコトがあるじゃん、とも思う。そこにインセンティブをもっていくから、とばないのである。言い方を変えれば、行くところまで行けば、物事はたいてい反転するか、別のトビラが開くということである。だから、今後も周りで誰かがとんだとしても、特に同情することはなく、かといって「人に迷惑かけちゃいけないよ」と正論をたれることもないと思うが「トンじゃうの? もったいねえ」とは思うだろう。

法則について 5月某日 晴れ

「ニホンのオーテのセーゾーギョー」と、ひとくくりにするわけではないが、安定的な投資を思い描いて買った人(そんなものは、そもそも存在しないかもしれないが)にとって、富士通、東芝、シャープの値動きは非道い。こういうのを見ていると、HやNの動きも気になってくる。重工系とか重機系とか、あるいはインフラ系なんかも含めて、どれがというわけではないが、どれかが相場を壊すほど落ちるのではないかとも思う。
もっとも、私はそういうオーテのアンテー銘柄を持たないから、落ちたところでどうってことはない。相場が崩れたら、連られて安くなったものを密かに買うという薄汚い魂胆もある。「別に崩れてもいいよ」と、願いはしないが期待はする程度の非国民である。
一方、大きな意味でのセーゾー銘柄の中では、私自身も結構長く持っているものがある。だいたい3か月くらいで、私としてはかなり長い。しかも、それはいわゆる新興銘柄で、新興株の長期保有は、手榴弾をポケットに入れて生活するようなもので、かなり危ない(と、私は思っている)。内心、おっかないし、もう飽きちゃったから投げたいとも思っている。さらには、これが期待していないのに微妙にアンテーしていて、F、T、Nのようなエキサイティングな値動きをしてくれない。オーテって何だ。アンテーって何だとあらためて思う。
その銘柄の頭文字はAである。そして、それを大胆に買った背景には、ある法則がある。それは、今年はAとKとBを頭文字に持つ株が上がるというものだ。AKBは人気がある。AKBという文字を見たり聞いたりする機会も十分すぎるほど多い。ならば、それが刷り込みになって、多くの人が無意識にAとKとBが頭文字の銘柄を買うだろうという理屈だ。
あらためて文章にするとめちゃくちゃな理屈である。しかし、その時はめちゃくちゃだとは思わなかったので、さっそくAとKとBを買い集めた。そして、ここが我ながら天才的だと思うのだが、間もなくしてKがぶっ跳び、Bが追いかけた。やっぱり人々の頭の中にはAとKとBが刷り込まれているのだと思った瞬間である。
ただ1つ誤算だったのがAである。
もしかしたら私はAがつく銘柄を選び間違えたのかもしれない。実はAがつく銘柄の最終候補は3つあり、悩んだ末1つに絞った。現時点での動向としては、正解はこの数カ月で2倍くらいになったAであった可能性が濃厚である。
さらにいうと、こういう意味不明な法則に辿り着いたのにはさらなる背景がある。それは、2013年の株価上昇率トップがアドウェで、2014年がアドプラで、両方がAがつく銘柄だと気づいたことである(みんな知ってるよ)。しかも、2014年は、2位がアサ理、3位がアサラで、Aがトップ3を占めた(アから始まる企業は多いからね)。私のような雰囲気トレーダーにたくさん利益をくれたポンツー様は4位であった。
ありがたがっている場合ではない。NではなくAだった。Aでなければなかった。
そう気づいて、さっそく恩あるポンツー様をすべて捨てた。バチ当たりだが、バチを恐れていては儲からないので、AKBに乗換えたのである。
Aの選択が合っていたかどうかも含めて、もしかしたら今年の大納会には、本当にAKBがトップ3を飾るかもしれない。当たったら誰か褒めてくれ。今のところ、まだそういう妄想は消えてはいない。その思いがあるから、とりあえず放置する。そうしているうちにすでに3か月が経ったが、このままいくと、さらに長引くかもしれない。妄想をこじらせると大変である。

風邪について 5月某日 晴れ

家中が風邪である。
始まりはボウズであった。幼稚園でもらってきて、遠慮なく咳・くしゃみをするのでチビにうつり、カミさんにうつった。リビングでは常に誰かが鼻をかみ、くしゃみをし、咳き込んでいる。
しかしながら、そういうパンデミックな状況でも、私は風邪をひかない。かれこれ15年くらい風邪をひいていないことが、私の数少ない自慢である。
風邪をひかないのは「馬鹿は風邪をひかない」からだろう。この通説が真実であれば理由はそれに違いない。
または気合いの問題である。フリーランスにとっての病気は効率低下と機会損失の直接的な要因であり、私はこの2つが何より嫌いだから、その点について私はサラリーマン諸氏よりも気合いが入っている。「病は気から」が真実であるなら、理由はそこにある可能性もある。
こういう先天的素養がある上で、もう1つ思い当たるのは、風邪をひくかもしれない可能性を意識的に避けていることだ。例えば、複数の人で居酒屋に行き、大皿のサラダなんかを頼んだりする。こういうのが危ない。しかも、そういう時に限って「ジカバシでいいよね」みたいな提案をする愚かな勇者がいる。周りは「そうだね」「そうしよう」みたいに何も考えずに同意する。最悪の合意だと私は心の中で思っている。
このようなジカバシ提案をする人は、たいてい女性だ。美人ではないけどブスでもなく、場合によってはちょっとモテそうな「中の上」であることが多い。多分だけど「ワテクシは高潔で清潔な女性でございますが、不潔で下半身で物事を考えてやがるアンタたちヤローどもとジカバシで食べてもよいという心の広さも持ち合わせてございますのよ」みたいな上から目線の意識がある。そして野郎どもは下半身で物事を判断するから、ありがたく受け入れ、ねぶった箸をサラダにつっこむ。あちらこちらからつっこむ。こうなったサラダはもはやカオスである。むろん私は手を出さない。じっと観察していると、提案した「中の上」の「ワテクシ」が微妙に鼻声だったりすることに気づいたりもする。
結局のところ、そういうカオスを避けるだけでも、人は案外風邪をひかなくなると思う。ということで、これから弱っている家族の面々のためにうどんを作る。面倒くさいから大鍋で作ろう。ただし、家族内でもジカバシはしない。

名前について 5月某日 晴れ

1位から順番に並べてみよう。
陽菜、凛、結菜、葵、結愛、愛莉、美咲、結衣、桜、凜となっているようである。親しくしているキャバクラ嬢の順位ではない。少し前に発表された、保険会社による女児の名前のランキングである。
私は一応、文字を扱う仕事をしている。しかし、陽菜と結菜と結衣は読めない。桜はサクラと読むと信じたいが、どうだろう。凛と凜はさすがにリンだろうと思うけれど、漢字としての微妙な違いは1分くらいで気づいたが、意味の違いは知らない。
ヒトサマのオウチのことなので、子どもにどんな名前をつけようが興味も関心もないが、この手の名前のことを、一般的には多分さげすみの気持ちを込めてキラキラネームと呼ぶ。
一方、キラキラしていない名前は何と呼ばれているかというと、最近はシワシワネームと呼ぶらしい。畳と仏壇の匂いがしそうな名前に限らず、昭和のころに多かった名前の総称してこう呼ぶのだそうだ。
こういう分類がなされる背景に、キラキラネームを巡る支持派と非支持派のディスり合いという構図があるとしたら、軍配は支持派だろう。「キラキラ」は遠回しに小馬鹿にした攻撃だが、「シワシワ」は直接的であり、攻撃力が大きい。行動が遅い人に「のんびりしてますね」とチクリと刺すか「ノロマ」と罵るかの違いのようなものである。どっちを味方するわけでもなく、どちらが勝とうがどうでもよいが、シワシワ軍団の次なる攻撃が気になるところではある。
尚、男児の方は上から順に、蓮、大翔、陽向、陽太、悠真、湊、悠人、陸、駿、朝陽となっているようだ。こちらも半分くらい読み方に自信がない。自分が文字でメシを食っていることに、いよいよ自信がなくなってきた。
多分だけど、子どもの名前がキラキラ系となるのは、親が「他人と違う個性的な名前をつけたい」と考えたからだろう。その結果としてつけた名前が、ランキング上位に入り、他人と「違わない」名前となっている現実は興味深い。そして皮肉でもある。

待つことについて 5月某日 晴れ

朝起きて、0歳児のチビにメシを食べさせる。最近は離乳食といわれる普通っぽいメシを食うようになったから、バナナとかキウイとかを切ったりして、ヨーグルトと一緒にちょびちょび食わせる。ボウズは自分で食べられるから、キウイを半分に切って、パンも食べたいという場合はトーストにして、最近お気に入りらしいココアを牛乳で溶かし、テーブルに並べる。それが終わったら洗濯機を回して、ゴミを出す。その後、ボウズと一緒にプランターの花に水をやって、猫のエサと水も補給する。そこまでやって、だいたい8時くらいになる。毎日がだいたい、そんな朝である。
そんな日々を過ごしながら最近よく思うのが、「待つ」ことは多分自分で考えているよりも大事だということである。
当初は、チビが食うスピードが遅いので「誰か幼児用入れ歯を開発してくれないか」と思ったものだ。ボウズが幼稚園の制服を着る際も、当初は私がボタンをとめていたが、最近は自分の小さい手と短い指でとめようと挑戦するようになったため、時間がかかる。だから、子供服のボタンを禁止して、すべてマジックテープ仕様にすればよいのにと思った。
しかし、いつからか分からないが、待つことに慣れた。むしろ「大きくなったなあ」「いろんなことができるようになったなあ」などとしみじみ思ったりもする。その変化に、私がおそらくもっとも驚いている。
私は根が貧乏性で、実生活も貧乏であるから、常に動いていなければ落ち着かない。だから、ビーチでのんびりするのは時間の無駄であると信じているし、明後日やるべきことは昨日のうちに終わっていないと気が済まない。また、じれったいことは嫌いだし、他人の時間軸で動くのも嫌いである。だから、行列に並ぶのは論外だし、2時間で終わる予定の取材は1時間半で終わらせるし、2時間以上かかる打合せには行かない。早い話、心の余裕がなく集団生活ができない社会不適合者である。
そういう私がチビとボウズに「待つ」ことを教わる羽目になったのは、要するに強制的なリハビリなのだろう。
すぐに結果を求めることは、現代人に多い悪いクセであるらしい。悪いかどうかは知らないが、私は現代人だから、そういう性質を持ち合わせている。一方で、新しいモノ・コトは無駄なことに取り組んだ結果として生まれるという論もある。これまでは「屁理屈言ってんじぇねえ、このやろー」と思っていたが、なんとなく言わんとしていることがわかったような気もする。
そういえば先日、ある取材で会ったコンサルタントの方も同様のことを言っていた。経営において全員が効率を求める状況の中で、差別化を図るには無駄なこと、非効率的に感じられることを徹底的にやるしかない、というようなことである。
ならばさっそく実践しようと考えたのだが、まったくもって無駄なことというのはなかなか見つからないものだ。部屋を片付けようかと思ったが、それは無駄ではない。知り合いと飲みに行くのも無駄ではないし、家族と遊ぶのはむしろ有意義である。
現代人的に暮らし続けていると、どうやら身のまわりに無駄なものが見つからなくなり、無駄なことの定義すらわからなくなるらしい。結果、PCの前で「無駄ななにか」がひらめくのをじっと待っている。いくら待っても何も新しいモノ・コトが生まれる予感はないが、それでいいのだろうか。

2万円について 4月某日 晴れ

日経2万円タッチは15年ぶりのことであるようだ。
私がフリーになったのがちょうど15年くらい前だから、この期間だけを切り取って見れば、経済環境としては決してよくなかった中を、どうにか切り抜けてきたということになる。ならば、なかなかやるじゃないかと自分を褒めることにしよう。褒めることは大事だと、誰かが書いた何とかという本に書いてあった気がする。「直」という字が名前に含まれているだけに、他人の言うことを素直に聞き入れるのが私の数少ないよいところである。
一方、誰もが儲かっているように見える相場で、私の口座残高が増えないのはなぜだろうか。チャートを見ると、年初から数カ月で1割以上も伸びている。機関も買っているのだろうし、外国人も買っているのだろう。何より日銀とかGPIFも買っている。国策に売りなしという格言があるが、こういうのには素直に乗っかるのが多分正解である。素直にETFを買っておけば、短期で資産が1割増えていたはずであるからだ。素直さはお金になる。なのになぜ、この部分に限って自分は素直でないのだろうか。我ながら扱いづらい性格である。
それは別にいいのだけれど(いいのかよ)、年間で兆単位で買う日銀とかは、いつぐらいに、いくらで売るつもりなのだろうか。買ったものは、いつかは売る。買って底上げするのはよいのだけれど、将来的には、買いが進めば進むほど大きな売り圧力になる。それを吸収するだけの買い手がいなければ株価は下がるので、そこだけを単純に切り取って見ると「2万奪還」とか「2万は通過点」と言ってはやし立てる論調には「本当にそうなの?」という疑問と、あまり事情を把握していない「素直な人たち」をはめ込もうとしているのではないかというちょっとした悪意めいたものを感じる。
まあ、こういうものは結果論でしか語れないから、2万円タッチして多少は跳ね返されても、そこから反発していくかもしれない。実際、今日現在の75日線はまだ1万9000円の下にいるが、戦争や大きな災害が起きた場合をのぞけば、そこまで落ちそうな様子はない。
それはそれで、多分よいことである。時期的に街中に新入社員が目立つが、彼らにとってみれば、日経8000円とかの時に就職するよりも、2万円前後の今年の方が気持ちが明るくなると思うからである。
この15年くらい、経済が低迷したことで日本はもうダメだとか、海外に行ったほうがいいとか、外資がよいといった説が生まれた。そうかもしれないし、そうではないかもしれないが「日本にいてもダメなのかもね」と頭のどこかで疑いながら働くのはストレスになるし楽しくない。その点が違う分だけ、これから働きはじめる人たちはポジティヴな気持ちで仕事とか会社とか人生に取り組めるのではないか。どんな仕事をするにせよ、楽しくやったほうがよい。と、過去に一度も就職活動をしたことがなく、まともな就職経験もない私は思う。

平凡な平日の昼下がりについて 4月某日 晴れ

ボウズは気まぐれで、それでいて自分なりにやりたいことや決めていることがあるらしく、そのひとつが、日中は私がほぼ専用で使っているトイレで小便をすることのようで、リビングに近いトイレで済ませてくれればいいのだが、そういうわけにもいかないらしく、もよおした時に遊んでいたおもちゃを片手に持って「おしっこ」とか叫びながら仕事場にやってくるから、まあかわいいもんだと思って、仕事中でもトイレまで付き合ってやることが多いのだけど、タイミングによっては仕事ではなく株をやっている時もあったりして、さらには垂直上下を繰り返している銘柄を見ている時もあり、そういう時は「今じゃなきゃだめなのかボウズ」と思ったりもするのだけれど、PCに張り付いていた所で結果としてうまい取引ができるとは限らないことは己がもっともよくわかっているから、適当なところに指値を入れてトイレに付き合ってやるのが日常で、今日も「さすがにそろそろ売らないといけないだろう」と思っていた連日暴騰中のK株が1300円前後で動いていたから、そのちょっと下で半分くらいの枚数を逆指してトイレに行ったら、値幅を深く考えることなく適当に指したもんだから、おしっこタイム中にしっかり売れていて、それはそれで「利確千人力」として自分を納得させつつ、100円くらい落ちたら買い直してもいいかなという欲目を抱えながらとりあえず放置し、気分転換に原稿を書きながら横目でチャートを見ていたら、勢いある暴落が始まり、しかもまったくリバウンドする気配がないから買い戻す勇気も出ず、「あと半分は戻ったところで売ればいいか」とか適当なことを考えながらそのまま見ていたら、1時間ちょっとで2日前の終値を割り込むところまで落ちて、結果を見れば、ボウズのおかげで半分は高いところで捌くことができ、逆に言えば、おしっこタイムがなければ逃げ遅れていたか、読み間違えて買い増していた可能性すらもあるので、取引の方法としては最悪だけど、結果がよければよしと思うことにして、ボウズやカミさんはこの1時間ちょっとの間の出来事をまったく知る由もないわけだけど、小銭が増えたのでファミレスに行ってパフェを食べたというのが今日のできごとで、取材や打合せで出かけない日は、多少の差はあるけれども、だいたい毎日こんな感じで過ぎています。

イノベーションについて 4月某日 晴れ

取材に向かうため渋谷を歩いていたら、スケボーに乗った外国人がぶつかってきた。スーツを着てリュックを背負ったふざけた格好のドイツ人風の長身ビジネスマンである。
こういう場合、日本人的な懐の深さを発揮して笑顔で許してやるのも手であるが、あいにく私は日本人ではあるが懐は浅く(そして寒い)、よもや相手が私の本命であるIoT銘柄を調子に乗って空売りしている外資系証券会社の一味である可能性を秘めていることを考えれば、微塵も笑みは浮かばない。尚、IoTという字面は、なんとなく泣き顔の顔文字に見える。それなら、スケボーアタックを宣戦布告と受け取って即座にエルボースマッシュを食らわせ、IoTみたいな泣きっ面にしてやるのが筋であろう。あるいは、密かに練習中のヘッドシザースを食らわせるという手もある。しかし、そこで迷ったがために先手を取られて、意外にも流暢な日本語で「すみません」と謝られてしまった。仕方がないので、挙げかけた右腕をスマートにごまかし、許してやることにしたというどうでもよい話である。
それにしても、スケボーで移動するとはどういう感覚なのだろうか。確かに歩くよりは早く、エネルギー効率もよいだろうから、メリットがないわけではない。自転車のように駐輪場を探す手間もないが、仮に客先に向かうのだとしたらスケボーはどうするのか。持って上がるのか。転んでスーツに穴が空く心配はしないのか。靴は革靴なのか。格闘を回避して別れた後、取材先に向かう道すがら、わからないこと、気になることが溢れてきた。
一方で、少しうらやましくもある。スケボーに乗れることではなく、私のような一般的感覚を持っている人が到底理解できない行動を、普通に発想して実行できることについてである。いわゆるイノベーションとは、そういうところから生まれるのかもしれない。スーツでスケボーに乗ることはイノベーションではないが、スーツでスケボーに乗るという普通の感覚では思いつかないことを、自分の中で普通だと信じきれることはイノベーションの種だろう。
シュンペーターという人は、既存のものの新たな組み合わせがイノベーションであると言っていた(ような気がする)。だとすれば、物書き商売に何かを足すことがイノベーションとなるわけだから、問題は何を足すかである。そしてそのヒントは、たいていの場合、自分が消費者として不満や怒りや不安を感じていることに目を向けることで見つかることが多い。本を読むひとりの消費者の立場に立つと、本を読みたくないと感じる理由、あるいは読む意欲が出ない理由は、時間がないから、または要点を読み取りづらいから、または高いからである。この3点を解決するために足すものは、すぐ読める、簡単に読める、安いといった要素であろう。考えてみれば、私がこれまでに関わってきた本のほとんどは、文字量が多く、難解で、1500円くらいするものであった。したがって私は、しばらくそのタイプは避けて、逆のタイプの本を重点的に作ることにする。「そんなものは本とは認めない」「物書き商売としておかしい」と普通の感覚を持つ人に言われるようになったら成功である。

実は自由であることについて 3月某日 晴れ

フリーランスのよいところは、理屈上、付き合う相手を選べることである。もちろん理屈と現実には差があるから、自分の理解や常識を超越するような相手の言いなりになってでも小銭を稼がなければならない人もいるだろう。しかし、付き合う人が選べないサラリーマンよりは自由である。ようするに自由を行使するかどうかの話である。
私は恵まれている方で、この人とは付き合えないと感じる人と会う機会はあまりない。もともと人間関係には鈍感だし、鈍感でありたいとも思っているからそれがストレスになることもない。こっちが敬遠したいと感じる相手は、たいてい相手もこっちを敬遠したいと感じているものだから、付き合いが続くこともない。数週間か、長くても数カ月、案件が終わるまで待っていればよい。
ただ、真面目な人ほど、それができないものである。分かり合おうとしたり、分かり合えるはずだと思ってしまうからである。その結果、無理に飲みにいったりしてお金と時間が無駄になり、精神をすり減らすことになる。苦手な人にあえて近づくというマゾヒスティックな方法にも自分の成長を促す効果があるのだろう。でも、目的が自分を成長させることであれば、方法はほかにいくらでもある。そう考えれば、世間でよく言われるような、若い人が数年で会社を辞めるといった現象は、別に悪くないと思うし、むしろ精神面における自己防衛手段としては理にかなっているようにも感じる。我慢しようとか、根性が足りないとか、そういう忠言ですら、見方を変えれば老害になりかねない。むろん、腹を割って話せば、時間を掛けて向き合えば、誰とでも仲良くなれる、理解し合えるというのは幻想である。持ち家信仰が薄れている背景にも、家というものに対する価値観の変化のほかに、一カ所に決め、付き合う人が限定されるリスクを回避したいという気持ちがあるのかもしれない。晩婚化についても同じで、相手と自分の常識や価値観がもしかしたら異なるかもしれないリスクを事細かな点まで突き止めたいという意識が見えるように感じる。
そう考えれば、おそらく重要なのは、誰もが転職、引っ越し、離婚という自由を実は持っていると認識しておくことだろう。たまに友人と集まったりすると、私以外の全員が独身で、転職経験ありのサラリーマンで、賃貸暮らしであったりする。ばついちか未婚で、既婚者がマイノリティとなるケースも多い。そこに近未来の日本の一般的な実態があるとすれば、あるいは転職と離婚に寛容で、自由(と、自己責任)を象徴する国であるアメリカを追いかけている日本の今があると思えば、悪しき根性論を拠り所にすることがいよいよバカらしく感じられてくるのではないか。バカらしいと思えれば、不快なストレスは減り、鬱を患う人も減る。ある調査によると、鬱病で病院に通っている人は100万人だそうである。その他の精神的な疾患を含めると300万人となり、人口比で考えると、日本は今97%くらいの力で動いているということになる。マクロな視点で見れば、フルパワーで動く国にすることは結構大切であるように思う。ミクロな視点で見ると、そのために個人にできることは、嫌なこと、人、できごとを受け流すということであったりするのだ。

時間について 3月某日 晴れ

フリーランスは、ようするに自営であるから、スケジュールを自分で管理する。
慣れれば大変なことではないが、自分ひとりで決められないという点がネックではある。例えば、週末にでかい仕事をやっつけようと計画していても、金曜に急な仕事が舞い込んでくることがある。弱小フリーランスとしては断る勇気はなく、そんなものは不要だとも思っているから、ここでスケジュールが少し変わる。そういう微調整を繰り返しながらわかったことは、たいていのことは徹夜すればできるということである。おかげで高校生のように飛び回る元気はないが、少々の徹夜ではびくともしない。今どきはやる人が少ないのだろうけれど、徹夜麻雀なら朝方まで同じペースで満貫をあがり続ける自信もある。やればやるほど私は多分儲かるはずである。
仕事の現場では、徹夜明けの顔色を見て、やせたのではないか、疲れているのではないかと心配してくれる心優しい関係者もいるが、それは表面的かつ一時的な変化・劣化であり、脳内はいたって普通である。そのことを、さすがカミさんは理解していて、徹夜明けでも容赦なく家の用事を頼んでくる。家を効率よく回すために私を上手く動かすには、ねぎらいや優しさや甘やかしは不要であり、そっと一番搾りを冷やしておけばよいとカミさんが心得たのは割と早い段階であったように思う。
人生を変えるための有効な方法の1つは、時間の使い方を変えることである。ほかには、付き合う人を変える、活動範囲を変えるという方法も有効であるが、この2つはすでにある程度実行している。私のような商売の場合、取引先を変えれば、おのずとこの2つが変わる。サラリーマンでいうところの転職や転勤のようなものである。一方、時間の使い方はこの15年くらい変わっていない。ボウズが中学校に入るくらいまでは徹夜上等で過ごせる自信はあるが、言い換えれば、それ以降は難しい気もしている。だとすれば、10年先から逆算して今やるべきことを考えるタイプの私としては、そろそろスケジュール管理を根底から見直さなければならないだろう。朝起きて、昼働いて、夜寝る。それだけのことだけど、うまいことやろうとすると結構難しいもんだ。

4年経ったことについて 3月11日 晴れ

この時期に仙台を訪れるようになって何年くらいになるだろうか。2011年も行ったし、その後は意識して毎年行くようにしている。
この4年について言えば、街は見違えたように美しく、元気になった。実家のベランダのヒビは直り、街中では、よくも悪くも復興や復活やがんばろうといったメッセージが減った。近々大きな水族館もオープンするという。このような変化を消極的に見れば風化ということになるのかもしれない。実際、私が見ている街や人は表面的であるから、すれ違う人たちの心に刻まれた恐怖感や、つきまとい、ふとした時に湧いて出る不安感は察するにあまりある。だから単純に風化させてはいけないとは思うが、風化しつつあるという現実から逆に考えれば、それだけ現地の人の努力によって日常の再構築が進んだということである。その並大抵ではない努力もやはり察するにあまりある。身近に犠牲となってしまった人がいる人の努力にはひたすら畏敬の念を抱くばかりである。
今年は0歳のチビを連れて出た。その目に人や街がどう映っているのかは分からず、見慣れた東京と同じに見えるかもしれないし、違いを認識する力もまだないのかもしれないが、言葉が通じない彼女には今のところ見せることしかできない。言葉が通じるようになったら、日本には日本人として、人として心の底から誇れる人たちがいて、街があることを教えてやろうと思う。社会における物事の風化を食い止められるほどの力を私は持っていないが、家庭内であればできることはある。できることは、多分それくらいである。

請求書について 3月某日 晴れ

報酬は労働の対価である。
そのため、昨年の秋くらいからめずらしく人気者だった私は、今月出す請求書の数が多く、夜な夜な、コツコツと、自分の労働がいかほどであったかを計算している。ただ、我々の商売では請求書を出す時期が納品してからしばらく経っていることが多く、どれくらい大変だったか(楽だったか)はとっくに忘れている。そういえばこんな仕事もやったなあという感覚でコツコツ請求書を書く作業は、よくも悪くもまったく感慨深さがない。
この業界特有なのだと思うが、フリーランスの人のなかには請求書を書く段階まで価格未定にしているケースもあるようだ。あるいは、請求段階になって取引先の言い値で請求書を書いている人もいるという。他人のことだからどうでもよいが、そういう人はフリーに向いていないと思う。どの商売を見たって、客の言い値でものを売る商売などないからである。私の場合、こちらの設定価格(実は価格表がある)と折り合わなければ、その仕事は受けない。請求段階になってまけることもないし、まけてくれというような寝言を言う担当者はスリーパーホールドで締め上げて、こちらの高値要求を飲ませる。だから、その点で不満や不安やストレスを感じることはないのだが、重要なのはむしろ請求額よりも実際に振り込まれる額の方だろう。会計の世界には、利益は意見、キャッシュは事実という金言がある。請求は立っていても、未払いという根本的な問題が起きれば商売にはならない。収支計算に慎重な私でも、未払いを食らったことは複数回ある。だから、請求書は書いて終わりではなく、振込額と照らし合わせなければならない。家に帰るまで遠足であるという園児向けの指導は、振込額を確認するまでが仕事であるというフリーランス向けの指導でもある(多分、違う)。
とくにたちが悪いのは、取引先が潰れたり性悪であったりして完全に取りっぱぐれるケースではなく、担当者のミス等で請求額よりも少ない額が振り込まれるケースである。振込額を確認しない限り、そのミスは一生気づくことがない損になる。この確認作業も、仕事等でバタついている時は割と負担なのだが、会社の規模の関係なく、付き合いの長さに関係なく、担当者レベルでミスが起き、振込額が間違っていることは意外とあるのも事実なのだ。
このような場合、私は人は恨まないがミスは重大視する。そして、再びその相手を信じるほど人間ができているわけでもないので、その会社や担当者からの新規の仕事は受けないか、最少単位で受ける。要するに、知人に金を貸すのと同じで、返ってこなくても気にならないくらいに抑える方針にする。まあ、それくらいの自己防衛手段はすでに多くの人がやっているかもしれないが、この点についてまことに不思議なのは、請求額よりも多く振り込まれるケースがないということであろう。20万の請求に対して10万しか振り込まれていないというケースはあり、実際に私も経験があるが、単純な確率で考えれば、たまには間違って200万くらい振り込まれてもよいはずである。でも、そういうケースはない。仮にそのようなめでたいことがあったら、私はどうするだろう。まちがいなく黙って受け取る。多かったですよとは、間違っても言わない。沈黙は金なりという言葉の意味は、そういうことである(多分、違う)。

タイプについて 2月某日 晴れ

取材では多くの人に会う。
たいていの人が、取材依頼を受けるくらいの成功者たちである。私のような愚者は、話を聞かせて頂き、いろいろと学び、考えさせられる。そのようなきっかけに恵まれていながらも、人生がぜんぜん好転しないところが、私が愚者たるゆえんである。
世間にも、成功者の書き下ろし本などを読み、あるいは成功談などから学ぶセミナーなどに参加して、勉強に励んでいる人が多いはずである。ただ、成功者が書いていることや勧めていることを実践しようとしても、小手先のテクニックはまだしも、自分の本質はなかなか変わらない。その理由を私は知っている。自分のタイプと大きく違う人の真似はきわめて難しく、ほとんど不可能であるからだ。
個人がそれぞれ異なることは疑いようのない事実であるが、タイプという点で見れば、私は8つくらいしかないと思っている。
まずは、外交的か内向的か。外交的は、たとえば「日々知らない人と会う」といった活動ができる人。または、そこにストレスを感じない人。一方の内向的は、自分の知っている範囲で行動することを好み、またはそれが好きで、興味があることを掘り下げる活動を好む人だ。
次に、過去と未来のどちらに判断基準を置くか。過去を参照する人は、成功例、失敗例を次に生かそうと考えるタイプ。未来を見る人は、新しいかどうか、変わっているかどうかを重視するタイプである。
3つ目は、自分の満足度に重点を置くか、他人を満足させることを重視するか。分かりやすく言うと、友人とメシを食う段取りをした時に、友人がうまかったと満足した様子を見て、自分も満足するのが前者、友人の様子はどうあれ、自分がうまいと感じたことで満足するのが後者である。
この3つで分けると、2の3乗だから8タイプである。自分のタイプと、参考にしたい成功者のタイプが同じか近ければ、多分、行動や思考も真似しやすい。まったく違う人を真似しようと思っても、よほどの自己改革力がある人は別だが、多分できないだろうというのが私の実感である。
ちなみに、今日の取材相手は私と正反対のタイプの人であった。そのため、貴重な話をたくさん聞かせてくれたし、その1つ1つがすばらしいことであったが、私には真似できないだろうと思った。成功者にはいくつものパターンがあるだろうから、いずれ私と同じタイプ(つまり、内向的で、未来基準で、利己の人)と会える日もやってくるだろう。あるいは、あらゆる成功者のリストを作り、自分と同じタイプの人をスクリーニングして見つけるという方法もあるが、面倒くだいやらない。それも愚者たるゆえんだろうとわかってはいるのだけれど。

税金について 2月某日 晴れ

昨年から投資に関する執筆や編集の仕事が増えた。いよいよ私のような弱小個人では量的に手が回らなくなってきたので、最近はその道に詳しい知り合いを紹介するなどしてお茶を濁している。
その際によく思うのが、世間の個人が投資をするようになって得するのは誰だろうかということである。ここは自信を持って言えるのだが、国である。というのも、国は税金により、個人が得た投資の利益の2割を持っていくからである。しかも、いかなる投資においてもリスクとリターンの大きさは同じであるはずだが、徴税にはリスクがない。仮に個人が投資に失敗しても、損するのは個人であって国が損失を補填してくれるわけではない。損したら自己責任。もうかったら2割ちょうだい。そりゃねえだろうと思うが、そうなっているのである。
世の中には「たくさん儲けたら、それ相応の税金を払うのがスジだ」という言う人もいる。しかし、税金を取る目的が、道路や公共サービスの充実であるとすれば、投資活動で使うものといったらせいぜいPCを動かすための電気くらいで、アスファルトを減らすわけでも、公務員の手間をかけるわけでも、環境を汚すわけでもない。
あるいは、税金を取る目的が、なるべく平等な社会を構築して、経済的弱者が暮らしやすくするためだという人もいる。たしかに、お金がなくて困っている人もいるだろうから、そういう人たちが最低限の暮らしができる環境を作ることは大切かもしれない。しかし、この点は相続税とか所得税についても言えることなのだが、重税を課して金持ちを貧乏にしても、貧乏な人が豊かになるわけではない。お金持ちと貧乏という関係は相対的であるが、お金がなくて困るという現実(食えないとか家がないとか)は相対的ではないからだ。そもそも日本はすでに豊かであり、ほぼ平等であるから、道がないから仕事ができないとか、学校がないから教育が受けられないといったレベルにはない。したがって、たくさん儲けたらそれ相応の税金を払うという考え方は、じつはまったくスジが通っていないのである。
税金を払いたくないわけではない。正直にいうと、払いたいとは思っていない。仕方がないことだとは思っているが、本当に仕方ないのだろうかと疑ってもいる。そういう心持ちで、これより確定申告の計算を始める。

職歴と学歴について 2月某日 晴れ

ある本を書く過程で一般サラリーマンの年収の推移を調べていたら、この10年間くらいで平均額が100万円くらい減っているとわかった。30代後半の人で見ると、2000年には580万円くらいあったが、直近は499万円で500万円を割り込んでいるそうだ。
すでにいろいろなところで様々な人が言っているように、年功序列という暗黙の了解により、放っておいても収入が上がっていく仕組みは崩壊していることが、このデータからもよくわかる。私はサラリーマンではないから基本的には他人事なのだが、家を持ったり子どもを育てたりするコストは従来とそれほど変わっていないはずだから、年を取っても給料は上がりませんとなったら、世の中の40代とか50代とか60代の人たちは、あるいはこれからその年代に向かう人たちは結構困るのではないかと少し心配している。
そういう環境を生き抜いていくための1つの方法として転職を考える人も多い。これまでは会社がある程度の道筋をつけてくれ、それに伴って収入も増えたけれど、今はぼーっとしているだけでは給料は上がらないし、むしろ下がる。だから、当然のことではあるのだが、自分のキャリアパスは自分で考えなければならない。どういう仕事に携わり、どういう成果を得たかといった職歴がポイントになる。よい成果だけではなく、挑戦した、失敗したという経験も含めて、多分バリエーションがあった方がよい。まっとうな危機感を持っている人は、そのことに気づいているし、行動もしていることだろう。
一方、キャリアパスを作っていくためには職歴と同じくらい学歴も大切なのだが、そのことにはあまり目が向けられていないような気もする。一般的に学歴というと、出身校や最終学歴のことを指すことが多い。どこどこ大学卒業、なになに学科出身といったようなことである。しかし、職歴が転職や転勤や部署異動や挑戦や成功・失敗によって更新されるように、学歴も20代前半で終わりというわけではなく、会社に入ってからも更新される。学歴とはようするに学びの歴史であるから、年齢制限はなく、範囲も制限されていない。あらためて学校に通うという意味ではなく、仕事としてITをやっている人が心理学を勉強するとか、物売りをやっている人が経理や法律を勉強するとか、そういう考えや行動が、現状として収入アップに結びつくかどうかは別として、キャリアパスの構築には重要だし有効だと思う。そして、学歴も、仕事に役立つかどうかという視点に限らず、多分バリエーションがあった方がよい。
本当の意味での学歴に目が向かなくなるのは、おそらくどこかの段階で学歴が出身校のランク・レベルのことであると定義付けされ、そういうもんだと意識したことが原因だろう。でも、その定義は誤りである。少なくとも狭義の意味でのプロフィールでしかない。自慢するわけではないが、私は割と早い段階で、世間一般で使われている学歴という言葉の意味が正しくないと気づいた人のひとりであった。どこが正しくないかを説明するのは面倒だし、必要性も感じていなかったので、そのことにはあまり触れてこなかったのだが、以来、いつでも、何でも勉強できるという考えはずっと持ち続けている。そして、遠回りであるように感じられるかもしれないけれど、それが年功序列から成果主義の評価基準に変わった後の世界を、豊かに暮らしていくためのポイントであり、今のところ多くの人があまり重視していないことであるとも思っている。ちなみに私は物書き商売をしているが、文章に関して勉強したことはほぼない。語彙が多いわけでもないし、書けない漢字もいっぱいある。相場も多分だけど、ちょっと高めだと思う。それでも仕事がくるのは、書くこととは直接的に関係のないことを知っていたり考えていたり勉強していたりするからである。その辺りは、コンビニは定価だけど便利だからつい寄っちゃうし、買っちゃうというのに、似ているような気がする。

予想と願望と妄想について 1月某日 晴れ

楽観的なコンセンサスは日経平均2万円を見ているようだ。
たしかに、アメリカを見ているとありえなくはない。あくまでもダウ平均の話ではあるが、たいして間を置くことなく高値を更新したという話が耳に入ってくるし、あちこちで紛争やテロが起きていても意外と底は固い。売り専のファンドが弱くなったのか、それとも本当に景気の見通しがよいのか、本質的な理由はわからないが、調子がよいのは事実である。仲良しも日経を引っ張っていく力もありそうだし、国内では消費税増税も延期されるし、超楽観的に見れば、もしかしたら3月くらいには2万円にタッチする場面があるかもしれない(テキトウ)。だとすると、私の好物である暴騰ギャンブル銘柄(ポテンシャルだけで一応株価はついているけれど、実力はよくわからず、ボラが大きい弱小小型株)を仕込む目安もそれくらいだろうか。さすがに2万円に近づけば、利益確定する人は増える。そのお金が流れてくると、私は4月くらいに小金持ちになれる(ガンボウ)。本当にそうなったとしたら、バブルの始まりかもしれない。私は年齢的に80年〜90年のバブル経済を経験していないが、話を聞く限りでは楽しそうだから、一生に一度は(できれば何度か)そのような時代に遭遇してみたい。何歳まで生きるかわからないから早いほうがよいし、早いに超したことはないから、今春ならうれしい(モウソウ)。性格的に「躍るアホウ」にはなれず、「躍らにゃ損」と割り切ることもできないが、儲かれば万事よしである。言い方を換えると、もし本当にそうなったとしたら、高い値段で株とか土地を買ってしまう可能性があるので、偶然にもこのサイトを見てくれた人は「躍らされるアホウ」にならないように注意してください、という心優しい私からの余計なお世話である。

喰うことの不思議について 1月某日 晴れ

喰うことについて、昔からよくわからないことがある。
1つは、グルメ番組になぜデブを器用するのかということである。太っている人は、私のまったくの想像ではあるが、好き嫌いなく何でも食べるから太っているのだろう。つまり、何を喰っても美味しいと感じる。そういう人には何を喰わせても「おいしい」というのではないか。
反対に、ガリは、これも私の想像だが、あまり喰わないからやせているのだろう。つまり、食に対する期待が薄く、何を喰ってもたいした感動がないだろうと思っている。だとすれば、そういう人が喰って、これはうまいとうなるものこそ、本当にうまいものなのではないか。私はガリガリではないがガリではある。だからメシははっきり言ってなんでもよいし、エネルギーと栄養がある程度取れるならカプセルが望ましい。ただ、たまにうまいなあと感じるものがある。トップスのカレーとか今半のすきやきとか鳥良の手羽先とか串の坊の串揚げとか、手近な所では、新幹線の弁当として売っているすえひろの天むすとか、イトーヨーカドーで売っているキャラメルポップコーンとかである。こういうものを紹介するなら、ガリがすすめたほうが説得力があるのではないか。
もう1つは、「寝る前に喰うと太る」という理由により、世の中の人たちが「寝る前に食べないようにしている」ということである。これは、単純に「逆だろう」と思う。
喰うという活動には、味を楽しむという側面もあるが、主たる目的はエネルギーや栄養補給であろう。だとすれば「太らないように喰う」ということは、効率をあえて低下させるということである。そんなもったいないことがあってよいものか。「食べ物を祖末にしない」というのが世間の常識だとすれば、これこそ祖末にしていることと言えるのではないか。「朝や昼は太らないからいっぱい喰ってよし」というのも、同じ理由で、なんだか論理が矛盾している気がする。勉強の効率が悪い夜にたくさん勉強し、頭に入りやすい朝には勉強しないといっているようなものであるからだ。燃費や効率を考えるなら、太りやすい(血肉骨になりやすい)夜こそ喰うべきだし、喰ってすぐ寝るべきだろう。だから私は、夜な夜な喰い、すぐ寝る。腹一杯だからよく眠れるし、世間一般が心配するように、目覚めが悪くなったり太ることもない。
そういう話を時々するのだが、不思議なことに賛同してくれる人は皆無である。不思議でならない。

新年について 1月某日 晴れ

おそろしいことに、新年である。
最後に日付を意識したのは、たしか9月くらいだったと思う。
このペースで仕事をしていくと年末まで休みがねえ、と心の中で愚痴ったのがその頃で、実際にそのとおりになった。家の中の飾り付けは、マメなカミさんがいろいろとやってくれるから、ハロウィン仕様になり、クリスマスツリーが登場し、片付けられたと思ったら松飾りが出ていた。このままいくと、気づけばひな飾りが出ているかもしれない。おそらくそうなるだろう。
ところで、私は毎年大晦日に翌年1年の目標を立てて紙に書き、次の大晦日にそれを評価・反省するというクラシックなことを続けている。たとえば、新規のクライアントを2つ増やすといった目標を立てて、実際に実現したかどうかを評価するというものだ。
立てる目標は10個と決めている。仕事に関することもあれば、家族をどこかへ連れて行くといったプライベートなこともあり、イライラしないといった自戒めいたものもある。それを大晦日に読み返し、1年前の自分がどんなものを目指していたのかを確認するとともに、実現できたものには丸、できなかったものにバツをつける。また、自分にとって引き続き重要だと思う目標は、1年目で実現できたとしても、もう1回書くことが多い。ただ、2年連続で実現できたものは、わざわざ目標としなくてもおそらくできるだろうという判断のもと、次の年の目標には書かない。たとえば、無事故・無違反などは、もう書かない。クライアントを2つ増やすという目標も、昨年で2回実現したから、今年は書かない。反対に、2年連続で実現できなかったものは諦める。こっちはたくさんあり、諦めたと同時に頭の中から消し去るから、どういうものがあったか覚えていないが、ゴルフのスコアアップとか、健康向上を目指していた時期がかつてあったような記憶がある。
10個の目標のうち6個実現できたとすれば、その年は60点だったということになる。例年、だいたい60点くらいが私の人生である。ところが、昨年は3つしか実現できなかった。ようするに30点である。あらためて数字にすると、たしかに30点くらいの年だった。目標が高すぎたわけではない。目標に取り組む意欲と意識が低すぎた。ただ、10個という目標は多すぎるので、今年は4つにする。得意の集中投資で100点を目指す。4つくらいなら実現できるような気がするのだが、どうだろうか。
とにもかくにも、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

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ライター 伊達直太

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