ライター伊達直太/取材後記2008

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取材後記 2008

忙しいですか? 12月某日 晴れ

「忙しいですか?」
取材や原稿依頼の打診を受けると、たいてい二言目にはこう聞かれます。年末ともなれば、必ずそう聞かれます。
もっとも、「忙しいですか?」と聞かれれば、私は「全然」と答える。すると、向こうが「ああ良かった。実はお願いしたい案件がありましてね……」と続く。
仮に、私が「忙しいです」と答えてみても、「そうですか。いや、実はお願いしたい案件がありましてね……」となるでしょうから、結局のところ、話の展開は同じなのですが、仕事を発注する人と受注する私との間では、挨拶のようなものかもしれません。
事情はどうあれ、まずは相手の都合を優先して、聞いてみる。日本人にはそういう美学があります。その点だけ取り上げれば、真珠湾に奇襲攻撃をかけたという歴史は、日本人っぽい行動とは言えません。問題になった論文にあったように、諸外国にハメられたという可能性も、なさそうで、ありそうで、やっぱりないのかもしれません。
それはさておき、私はもっぱら受注側なので、誰かに「忙しいですか?」と聞く機会がありません。しかし、ある編集者さんによれば、中には「忙しいです」と答える人もいるのだとか。
これは勇気がいります。
また、実は、ものすごく損な答えなのかもしれません。というのも、「忙しい」と答えた場合、おそらく相手は「物理的にどうにも時間が捻出できないんだな」と解釈するでしょうが、もしかすると、「無能だから時間が足りないんだな」と解釈するかもしれないからです。
そこに着目してみると、「忙しいですか?」という質問は、単なる発注者と受注者の挨拶にとどまらず、相手が無能かどうかを量るためのバロメーターとして機能するのかもしれません。
あるいは、私がことある度に「忙しいですか?」と聞かれるのは、無能かどうかを見極めようとしているからかもしれない。何者かが、私に「忙しいです」と答えさせるよう仕向け、ハメようとしているのかもしれない。
何が言いたいのかというと、私はそういう妄想で時間をつぶしているくらい、「全然忙しくない」ということです。

不況の折 12月某日 寒い

気づけば、12月です。
毎年この時期は、会社の重役、主に社長さんのインタビュー仕事が入ります。来年の経営方針や抱負をうかがい、社内報やIR誌の新年号の記事にするという仕事です。
今年は5名の社長さんから話を聞いたわけですが、さて、社長はこの不況をどう見ているか。
景気の分析や見通しの見解は、業界や業種によって異なりますが、共通していると感じたのは、いずれの社長も景気が回復した時のことを意識しているという点です。
さあ、景気が上向いた。可処分所得も消費能力も回復した。その際、真っ先に商売ができるのは誰か。不況の間を利用して、着々と準備をしてきた会社だ。
そういうビジョンを持っているということです。
企業体力がある大手など、強者ほど不況を乗り切りやすいと言われます。しかし実は、強者が不況を乗り切れるのではなく、不況の時期を活かして強く生まれ変われる人や企業が、結果として生き残るという見方の方が正しいのかもしれません。

原点回帰 12月某日 晴れ

取材や打合せにて、景気の話が頻出するようになりました。急激な不況の中で、客数や消費はどう推移しているのか、経営者はどんな戦略を練っているのか、業界や店はどういう対策を打っているのか、そういったことをテーマとする原稿も増えました。
ところで、フリーランスの商売というのは、人によって異なるでしょうが、他人が思うほど景気動向の影響を受けません。もともと経営がスリム化していますから、方向転換するのが簡単です。また、売上げによる収入と家計における支出とが直接的にリンクしますから、仮に収入が減ったとしても、円高還元で安くなったワインを買ったりして、吸収することもできる。
特に物書きの場合は、職業の根本的な性質として、贅沢が見込める商売ではないことをやっている当人が百も承知しています。また、出版業界の低迷という点で言えば、ずいぶんと前から不況に慣れている。この半年ほどで不況になった他の業界とは筋金の入り方がちがう。だから、報道が「不況だ」「円高だ」「大変だ」と騒いでも、それほど驚かないわけですね。それが良い所とも言えますし、それしか良い所がないとも言えます。
そういう背景を踏まえると、不況とは結局、「原点をどこに打つか」という問題なのかもしれません。つまり、沢山売れ、沢山儲っている時を原点とするか、そこそこに売れ、そこそこに儲っている時を原点とするか。
バブルがなぜ起きるかと言えば、沢山儲っている時の価格を原点だと勘違いするからです。黒字倒産が起きるのも、沢山資金を投じることを前提にするからです。
そこそこに儲けさせてもらう。景気が良く、予想した以上に売れたら、「儲けもん」ということで、感謝して頂戴しておく。そういう感覚を原点として持っている経営者は、「欲がない」「向上心がない」と言われるかもしれませんが、不況には強い。だからこそ、有能な経営者の方が言う「原点回帰」という言葉に重みがあるわけなのですが、改めて振り返ってみると、ずいぶんと長いこと、高めに原点を打つのが流行りだったように思います。

精神論 11月某日 晴れ

今月から、新たな連載で、メンタルトレーナーの方と一緒に仕事をすることになりました。経営において重要なこと、例えば、目標設定とかスタッフの導き方といったことについて、心理面からアプローチするという記事です。私はその内容を原稿にまとめる役割です。
ところで、「心」と言うと、なんとなく眉唾な感じがするのは私だけではないでしょう。昨今は、学校でも職場でも、何かと心のケアを重視します。アメリカでは既にそれが一般的で、結婚でも子育てでも、問題が起きるとすぐにカウンセラーを頼ります。ホームドクターを持つ感覚で、かかりつけのカウンセラーを持つ人も大勢います。
実のところ、私はそういうアプローチにあまり感心しません。私はこう見えて(どう見えているか知りませんけど)、努力、忍耐、根性といった、今どき流行らない精神論を重んじるタイプですから、人を頼らず、自分のことは自分ですればいいと思う。心とかハートとかヤワなこと言ってないで、精神力でなんとかしなさい、とも思う。リアルな物事にしか興味を持たない私にとって、実体のないもの、例えば、スピリチュアルなものとか、運とか縁とか心とか、そういう議論は性に合わないわけです。
で、トレーナーの話はどうだったか。
実は、非常に面白かったんですね。
心を1つの「象徴」として議論すると、議論の中身がフワフワしたものになります。しかし、心を脳の働きの一部として捉えると、そこには実体がありますから、コントロールできる要素もある。インプット(周囲の環境による影響)とアウトプット(精神状態)とに整理して考えれば、心が経営(や日常生活)にもたらす影響は小さくない。そういうことを感じたわけです。
精神力1つで、成せば成る。
腹が減っていても、減っていないと思えば、減っていない。
私は基本的にそういう考え方で生きています。しかし、もしかすると、もう少し合理的、かつ効率的なアプローチがあるのかもしれません。

アメリカンスタンダード 11月某日 晴れ

私が携わっている月刊誌や広告関連の仕事は、1〜2カ月先行して取りかかります。つまり、11月の今日、書いている原稿は、そのほとんどが09年に出るもの。一足先に、新年気分です。
もっとも、これだけ急激に景気が変化すると、わずか1〜2カ月先とは言え、どうなるものやら分かりません。アメリカがくしゃみをすると、日本だけでなく、先進国のあちこちがカゼをひく時代、1つだけ分かったのは、グローバルスタンダードと言われていたアレコレが、所詮はアメリカンスタンダードだったということでしょう。
金融至上主義が悪いとは思いません。しかし、そういう思考に慣れ過ぎると、お金やモノを持っている人が偉いと思いこむようになります。これは怖いことです。
貯蓄の利回りを常に見直し、とりあえずモノを増やす。
それがつまり、アメリカンスタンダードなわけですが、非常に疲れる生き方とも言えます。
今の不況は、マクロで見て決して良いものではありません。ただ、唯一、お金とモノを増やし続ける日常から解放されるという点で見れば、ちょうど良い小休憩であるようにも思います。
あるいは、お金やモノをたくさん持つことが理想的な人生なのかどうか、疑ってみる上でも、良い機会になるかもしれません。
私を例に挙げると、身の回りには既にたくさんのモノがあります。しかし、これらが全部必要なモノかと言えば、絶対にそんなことはない。それでいて、まだ何か、買い増やそうとしている思考もある。そういう日常を省みれば、モノの多少と幸せの大小が、必ずしもリンクするとは限らないと気づいたりするわけです。
だから、ちょっと休憩。09年は、「いらない」というひと言をテーマに、「買う」「持つ」「増やす」からの脱却を目指してみたいと思います。

いつかはレクサス 11月某日 晴れ

今年、千葉県には新たに4つのゴルフ場がオープンしました。そのうちの1つである高級ゴルフ場へ行ってきました。もちろん、取材です。
何事においても、「新規」「スタート」「オープン」というのは気持ちがいいものです。勢いがあります。ゴルフ場には「こういうゴルフ場を作りたい」という理想像がある。会員になる人たちには「こういう風にゴルフを楽しみたい」という理想がある。願望とはつまり、エネルギー源です。
さて、このゴルフ場の会員権はいくらかというと、1千万円ちょい。駐車場はまるでヤナセのショールームですから、車を停めるのにも気を遣います。
ベンツとジャガーの間に車庫入れする勇気、ありますか?
私にはありません。
だから、両隣空いている遠いところへ停めるわけです。
こういう世界が存在する現状を、世間は格差社会と呼びます。広告の世界では、ひと昔前に「いつかはクラウン」という名コピーがありましたが、格差社会では、カローラから始め、クラウンに辿り着くという順路が見えづらくなりました。「いつかは」という流れを踏まえることなく、富裕層だけをターゲットにするレクサスは、時代を代表する車と言えるでしょう。格差社会とはつまり、「いつまでもヴィッツ」と「いきなりレクサス」が分かれる社会です。
しかし、そういう社会だからこそ、「いつかは」という願望が重要なのかもしれません。
諦めたら、そこで終わり。
ふてくされたら、それで終わり。
エスカレーターが動いていないなら、階段を上るしかありません。
ものの本によれば、「○○したい(したくない)」と考えるのは、脳の大脳皮質という部位の働きだそうです。この部位が発達しているのは人間だけ。人間以外の動物、例えば、ネコとかイヌは、本能として食べたい、眠りたいという場合を除いて、「○○したい」とは考えません。つまり、願望をエネルギーに変えていけるのは、人間だけ。こういうエネルギー源は、易々と捨ててはいけません。

エントロピー 10月某日 晴れ

「転職と中途採用の現状」に関する記事で、あるメーカーにて話を聞かせていただきました。「ウチは、石を投げれば中途に当たる」という同社の人事部は、昨今、季節を問わず採用業務に忙しいようです。
ところで、ものの本によると、熱力学には「エントロピー」という概念があるそうです。どういうものか。熱湯が入ったコップに氷を入れると、最初は熱い物と冷たい物という「秩序」で分離されている。しかし、やがて平均化され、全体がなまぬるい状態になる。つまり、外部からエネルギーが入らない状態では、熱は自然と拡散し、入り乱れ、無秩序な状態になる。これを、エントロピーが増大すると言います。
労働市場をコップに見立ててみると、ここでもエントロピーが増大します。新卒採用時こそ、学歴などを基準に優秀な人とそうでもない人とに分けられますが、就職後の各人の努力の大小などにより、全体的になまぬるい状態になります。そういう点で見れば、転職や中途採用というのは、エントロピーの増大に抵抗し、秩序を取り戻そうとするための運動と言えるかもしれません。
ただし、エネルギー保存の法則というものがありますから、お湯と氷がぬるま湯になっても、コップの中の熱量は変わりません。労働市場においても、働き手があちこち転職し、企業が優秀な人を中途採用したところで、すべてはコップの中の変化であり、マドラーでグルグルやるのと同じですから、総エネルギー量は変わらない。GDPも変わりません。
コップ全体の熱量を上げるためにはどうすればいいのか。コップを火にかけるなどして、外部エネルギーを与えなければならないわけですね。あるいは、外から熱い湯を足し入れることもできます。移民に寛容なアメリカは、こうしてエネルギーを高めてきました。その逆で、冷めた水をコップの外に放出するという方法もあります。ならば、ニートや働く気のない人を無理矢理社会に参加させようという考え方は得策とは言えないかもしれません。
「優秀な人をとる」のが、中途採用の基本。「優秀さをアピールする」のが、転職の基本。ところで、「優秀」の基準ってなんでしょう。もしかしたら、「できる・できない」といった結果ではなく、「やる気がある・ない」といったエネルギーなのかもしれません。

底なし 10月某日 秋晴れ

過日、ある新聞社さんの取材を受けました。とはいえ、たいしたことを話したわけではなく、「28歳からのリアル」という本がなかなか好評だということで、最近の20代をどう思うかと聞かれ、答えられる範囲で答えたという話です。
ところで、私が20代後半だったころをふり返ると、勇敢にも自分の現状とだらしなさを直視してみた結果、「このまま30代に突入していいのだろうか」という不安に悩んだことがありました。しかし、そうこうしているうちに、今や30代も半ば。20代後半に感じていた不安は、30代になって生じる新たな不安に打ち消されました。目下、弊宅には子供がいませんので、死んだ後に墓がどうなるのかなんてことが気になってしょうがない。金欲と不安は、追求するほど底なしなのです。
お金は塩水である、と表現した人がいます。つまり、飲めば飲むほどのどが乾く。不安も似た原理のものです。推理小説みたいなものでしょうか。読み進めるほど眠れなくなる。時には、潔く本を閉じないことには、明日を生きる力が失われるのです。

秋カゼ 10月某日 くもり

私はたいてい、夏と秋の変わり目にカゼをひきます。毎年の恒例のようになっています。かくして今秋も、年末に向けた仕事が一段落した途端に具合が悪くなりました。
悪寒。関節の痛み。体の重さ。タバコのまずさ。カゼの各症状を自覚するころにはすっかり熱が出ました。当日は久々の飲み会も予定に入っていたのですが、これも欠席させていただき、寝込むことになったわけです。
ところで、私はじっとしているのが苦手です。性に合いません。長風呂もしませんし、ビーチでのんびりも好きじゃない。黙ってテレビを観ていることすら嫌。当然、カゼだから寝るというのも大嫌いです。したがって、ベッドにパソコンや紙とペンを持ち込みます。恒例なのですから慣れたものです。しかし、今回はいつものカゼと具合がちがう。自分で思っているよりも熱があるようで、頭がボーッとして考えがまとまりません。
そこで、よせばいいのに「何度あるか、測ってみよう」と思ってしまったんですね。
まったく、好奇心というのは厄介なものです。
さて、どうなったか。自分では37度くらいだろうと思っていました。しかし、測ってみると39度8分。予想外の高熱にショックを受け、余計に具体が悪くなったわけです。
結局、平熱(35度ちょい)に戻るまで2日もかかってしまいました。
数字を把握することは、実態を把握する上で重要です。しかし、詳細を見ず、そっとしておく方が得策である場合もあるのかもしれません。
世間では最近、株安が止まりません。弊宅も小口の株をいくつか持っておりますので、それらがどれくらい下がっているのか非常に気になるところです。しかし、私は見ない。見ればきっと、さらに具合が悪くなる。カゼの一件から、そう学んだのです。

霞ヶ関 9月某日 雨

経済産業省の取材で、霞ヶ関へ行ってきました。この近隣に行ったのは、当時環境大臣だった小池さんを取材した時以来。小泉さんの時代ですね。以来、首相は3回ほど変わりましたが、この辺りの景色は相変わらずです。
そもそも官庁がここに集中したのは明治時代のことのようですね。計画の原案は、意外にもドイツ人が行ったそうです。町内で唯一、震災や戦火を生き抜き、明治の香りを残している司法省庁舎(中央合同庁舎6号館赤れんが棟)もドイツ人の設計。欧米に負けじと、一生懸命外国の風と香りを取り入れようとしていた様子がうかがえます。
私はとりたてて明治時代やネオバロック様式の建物に関心があるわけではありませんが、クラシックな雰囲気に少し興味をひかれたのは年をとったせいでしょうか。過日、地方出張の際に東京駅の外観を見た際にもそんなことを思いました。ちなみに、霞ヶ関について私がもっとも興味を持ったのは、道行く人々がおしなべて高学歴であるという点。東大を知る人がここまで集まっている場所は、東大を除いてほかにないでしょう。おもしろい町です。

立ち読み禁止 8月某日 晴れ

物書きの商売は、原稿料、編集費、印税といったもので成り立っています。過日、「28歳からのリアル」という本の改訂版と図解版を出版しましたが、これらがおかげさまで売れているようで、大手書店のビジネス書ランキングでは店舗によって1位になったりもしております。ありがたいことです。
この点からもわかる通り、我々は「書きっぱなし」であり、「売る」という商売の基本的な部分は、書店さんに任せっきり。いつも、ありがたいなあと思っております。
さて、書店さんの商売については「立ち読みをどうするか」という議論があります。
現在、多くの店舗ではマンガが立ち読みできません。私はまったくといって良いほどマンガを読まず、マンガ関連の仕事もないので、正直なところ、マンガが売れても売れなくてもどっちでも構いません。ただ、マンガも書物の一部ととらえれば、立ち読みは子供が書物と親しむ入り口になるようにも思います。私は密かに、子供に書物を楽しんでもらいたいと思っています。テレビやゲームよりも書物の方がはるかにおもしろいとも思っています。するとやはり、若年層の市場開拓という点も含め、マンガを立ち読み禁止にしてしまうのは少し寂しい気がするわけです。
他の商売をみても、車には試乗、化粧品には試供品、PCソフトにはお試し期間があります。「お試し」のビジネスモデルが書店にも通用するのであれば、「立ち読みで済まそうとするケチな客」と「立ち読みしたら面白かった、買ってみよう」といった効果は、案外相殺されるのかもしれません。

オシャレ 8月某日 猛暑

過日、丸紅の社長さんの取材がありました。その中でひとつ印象的だったのが、オシャレであるということ。イギリス赴任していたころからオシャレを楽しむようになり、今でも自分の洋服は自分で選ぶのだそうです。
一方、最近は、取材や撮影の際にスタイリストをつけるエグゼクティブが増えています。なぜ社長にスタイリストが必要なのかといえば、社長は会社の顔であり、安っぽい、ダサいと思われては一大事だからです。ならば、餅は餅屋で、服のことはスタイリストに任せる。また、社長は経営のプロですから、服を選ぶよりも経営に携わっていた方が全体の効率が良い。分業の効果は偉大である、とアダムスミスも言っていたような気がします。
とはいえ、果たして効率が最優先なのか。
オシャレを他人任せにすることに弊害はないのか。
経営というのは、欲求が牽引し、不安が後押しする車だとよく言われます。欲求には、儲けたい、会社を大きくしたいといったことも含まれますが、個人レベルでは、これを着たい、あれを食べたい、こんな家に住みたい、といった衣食住の欲求も含まるのでしょう。つまり、オシャレ(=衣)も牽引力のひとつ。ならば私も、レオンくらい読んでみなければなりません。
ところで、私が最後にファッション誌をめくったのは中学生の頃にまでさかのぼります。いまさらファッション誌を買うとなると、なんだかエロ本を持ってレジに並ぶような恥ずかしさがあります。おそらく、「かっこつける」という行為と性的衝動の本質は同じなのでしょう。ああ、恥ずかしい。レオンを隠し持ってレジ前を行ったり来たりする挙動不審な自分が目に浮かびます。

「頼る」 7月某日 酷暑

食糧問題に関する記事の取材で、あるレストランにてお話をうかがってきました。
レストランというのは、材料の原価が30%前後で損益分岐点になる店が多いそうですね。
すると、原価の値上がり分は売値に転嫁しなければならないのですが、しかし実際は難しい。曰く、「飲食店ってのは、開くのも簡単だけどさ、潰れるのも簡単だよ」だそうです。
原価率が抑えられない原因のひとつとして、食糧自給率の問題があります。日本の自給率は現在、カロリーベースで計算すると39%だそうです。
ただしこれは平均値の話。北海道、青森、秋田、山形、岩手では100%を超えています。
一方、自給できていないのは都市部で、東京は1%、大阪は2%、神奈川は3%。簡単にいえば、「自給率が低い」「なんとかしなければ」という危機感は、都市人が都市人に発信しているメッセージに過ぎないということです。
もうひとつ、食糧自給率について気になるのは、外国に「頼っている」という表現です。「頼る」というのは精神的な表現で、卑屈な感じがします。
しかし、バカを言ってはいけません。私たちは食べ物を恵んでもらっているのではありません。買っています。汗と涙を流して稼いだお金と、あるいは血税を払っています。汗涙血による正当な取引です。日本は「頼る」ほど落ちぶれてはいませんし、中国やその他の国だって、頼る国に食べ物を恵んでやるほどお人好しではないのです。
平然と「頼る」という言葉が使われるのは異常です。精神的に自立していないということだからです。ならば、食糧自給面での自立より先に、精神的な自立が先ではあるまいか。戦後のなにもないころを振り返れば、アメリカからあらゆるものを恵んでもらいましたから、その名残りとして「頼る」という感覚があるのかもしれません。ならば、そういうものとも決別のころです。
先進国たるもの、頼られることはあっても頼ることなどあってはなりません。腹が減る日もあるかもしれませんが、「武士は食わねど高楊枝」だから、日本人はかっこいいのです。

職場環境 7月某日 猛暑

仕事柄、打合せであらゆる編集部やデザイン事務所に出向きます。取材で企業などにもお邪魔します。最近は職場環境の改善や向上に努める企業が多いようで、モデルルームのような会社が増えました。安全や健康にとどまらず、オシャレな仕事場を求めるのは現代人の人情なのでしょう。
私の仕事場はというと、実はとてもきれいです。本は本棚、資料は資料棚、ゴミはゴミ箱に収まっています。床にもホコリひとつありません。私は床掃除なんかしませんから、カミさんが掃除してくれているのでしょう。
そういえばかつて、ウチに来て話を聞きたい、カメラマンを連れてくので撮影したい、と言う雑誌社の方がいました。丁重にお断りしたのは、コンフィデンシャルな資料があるためで、それさえなければ、ぜひお目にかけたいほどです。
それはそうと、私は仕事中、ラジオか、あるいはテレビをつけています。静かすぎると落ち着かないからです。
とはいえ、うるさすぎるのもいけません。最近はバレーボール中継がよくやっていましたが、あれは点を取った時だけでなく、取られた時もハイタッチしてワーキャーやります。黙ってやりなさい、と思います。チャンネルを変えるとグルメ番組がやっていますが、これも「柔らかい」だの「脂がのっている」だの、いろいろとうるさい。
黙って食べなさい、と言いたくなります。
テレビを消してラジオをつけると、今度は日本人のヒップホップ気取りみたいなものが癪にさわります。愛だ恋だの泥臭い歌も嫌いです。洋楽にしようと思ってインターFMに合わせると、しれーっと日本人の曲を流したりします。これにもイラッとします。
そういうわけで、いつまでも原稿を書き進めない私は、結局のところ集中力が欠けるのでしょう。つまり、問題は環境ではなく働く人の素質。職場環境の良し悪しなんてものはプラスαの要素でしかなく、集中力がない私のような人のいいわけに過ぎないのです。
ちなみに、チャンネル選びに飽きると、私はたいてい書類を片づけたり、モニターを拭いたりします。集中している時は物書きですが、それ以外の大半は掃除夫です。今日もまた少し、仕事場がきれいになりました。

恐れたのではあるまいか 7月某日 晴れ

取材先で喫煙所に立ち寄ると、先ほどまで現場で一緒だった人や、以前ご縁があった人とバッタリ会うことがあります。「先ほどはどうも」とか「久しぶりですねえ」なんてことで、話にひと花が咲くこともあります。喫煙所というところは、かつてのヨーロッパでそうであったように、社交場の機能も持つわけです。
ところで、社交場での会話から、TASPOを持っている人がほとんどいないことがわかりました。ニュースによれば、TASPOの導入には800億円くらいかけたそうです。こういうのを失策と呼びます。じつにもったいない話です。
どういうわけか世間は分煙こそが唯一の正解であると考えるようになりました。喫煙者は、当然の理屈として「我々がカードを持つはずがない」「見当はずれの施策である」と考えますが、そういう意見は、煙と一緒に小部屋に封じ込められるようになりました。思うに、失策の原因はここにあります。どんな選択であっても、100%正しいということはありません。無農薬野菜を買えば、虫がついていることもあります。分煙を押し進めれば、喫煙者の意見が聞こえなくなって当然です。800億円も投じる前に、分煙が唯一という考え方をあらためなければならなかったのです。
私はそもそも、未成年者の喫煙を防止する目的がよくわかりません。喫煙して生き急ぐ子がいても、それは当人の勝手であり、困るのは当人です。
ひょっとして、この施策は、たばこを吸う不良の子を恐れた結果ではないでしょうか。
不良はコワい。注意したいが、それもコワい。だから機械で規制しよう。
そういう思惑ではあるまいか。だとすれば、この上ない失策です。
中高生なんていうものは、気に入らなければ注意すればいいんです。他人の子であろうと、ひっぱたけばいいんです。逆ギレされて万一の目に遭ったら、私が責任持ってヒーローとして祀り、伝記を書きましょう。つまりそれが、大人の威厳。そういう重要なところで機械に逃げると、ますますなめられるだけなのです。

余計なお世話ではあるまいか 6月某日 晴れ

世間はなにかとサービスを重視します。本屋にも、ディズニーランドやリッツ・カールトンを手本とする書籍がたくさん並び、この2つはサービスを考える上では避けて通れない優良企業ですから、それなりに「なるほどねえ」と思うことが書かれています。
しかし、サービスというのはそこまで重要なのでしょうか? そういうものはアメリカ人の得意分野であり、日本人がマネしなくていいのではないでしょうか?
たとえば、車に乗ろうとしていた矢先、通りがかりのアメリカ人に「Wash your car」と言われたことがあります。私は年に2回ほどしか洗車しませんから、ずいぶん汚れていたこともたしかです。しかし、極めて余計なお世話です。相手が日本人だったとしたら、おそらくケンカになります。
あるいは、アメリカのレストランに行って「ロブスターとサラダと、それからカラマリをください」なんて頼むと、ウエイターが「Good choice」みたいなことを言います。
これも余計なお世話にほかなりません。日本人のウエイターに言われたら、「うるせえ、早くもってこい」となるでしょう。
つまり、サービス精神とはおせっかい精神でありアメリカ人の気質。日本人には向いていないのです。
それでも町中には、店員がやたらと愛想よく、「笑顔運動」なんてことをやっている居酒屋もあります。しかし、そういう店ほどグラスが汚れていたりします。愛想笑いするひまがあるなら、奥に引っ込んで洗い物をしなさいと言いたくなります。タイヤみたいなステーキを出しておきながら、ニコニコ顔で「ほかにご注文は?」と聞く店もあります。返す言葉もありません。
思うに、サービスというのは便利な言葉です。付加価値をつけているように見せることができ、本質の欠点をごまかすこともできます。愛想のないジジイが切り盛りしている店も不愉快ですが、サービス重視の店は期待はずれの場合が多いと、私は外食する度にそう感じます。

「風格」ではあるまいか 6月某日 晴れ

誰が言いはじめたのか知りませんが、アメリカにおいて、太った経営者は「自己管理不足」と言われます。たしか私が中学生だった時分、そのようなことを耳にした記憶があります。以来、「大将」といえば恰幅のいい人を指していた日本でも、社長はこぞってダイエットに努めました。政治の世界も森首相以来、小泉さん、阿部さん、福田さんという流れ。近隣国でも、恰幅がいいのは北の大将くらいしか見当たりません。
たしかに肥満は見劣りします。健康にもよくありません。エネルギー消費量が多く、昨今の環境重視社会を逆行しているともいえます。
しかし、やせっぽちで、胃腸の弱さが顔ににじみ出ている大将というのはいかがなものでしょうか。昨今、「風格」を失った大将ばかりが目につくことを、私は密かに残念に感じています。
風格が失墜した背景として、会社が株主や消費者のものであるという考えが定着したことがあげられます。私の記憶が正しければ、この諫言もアメリカ人によるものだったと思います。しかし、社長は株主や消費者のご用聞きではありません。「オレは社長だ。太っていて何が悪い」と言い放ってこそ、社長の風格なのではあるまいか。私は最近、そう思います。
家庭においても、だいぶ昔に親父の風格が潰えました。潰したのはほかでもなく、世の妻です。年寄りの風格は、それ以前の核家族化によって風化しました。最近では「友だちのような母娘」というのをマスコミが流行らせ、母の風格も陰り、体罰を禁じられた教師は、子供だけでなくモンスターペアレントという名のばか親になめられるようになりました。
「オレは父親だ、バカモン!」「母親に逆らう子はご飯ナシです!」「教師に歯向かうとはなにごとだ!」
はたしてどれだけの人がそう言えるでしょう? 「品格」のない社会も深刻ですが、風格を軽んじる社会も深刻です。一日も早い復活を願うばかりです。

ストロー 6月某日 晴れ

私はマクドナルドが好きです。なかでもナゲットが好物であり、取材や打合せの帰り道には、しょっちゅうテイクアウトしています。とりたてて腹をすかしていなくても、気づけばナゲットを注文しています。私の前世はマスタードソースだったのかもしれません。
そんなわけで今日も、駅前のマックにてコーラとナゲットをテイクアウトしました。
前世の恋人と幾日かぶりの再会です。すると、店を出て数十メートル歩いたあたりで、後ろから「お客様ー」の声。ふり返ってみるとマックの店員が追ってきます。追われると逃げたくなるのが私の条件反射なのですが、逃げる理由が思い当たりません。ふと、彼女の前世がバーベキューソースで、マスタードソースとナゲットの恋路を邪魔しにきたのかと警戒しましたが、捕えられてみると、「ストローをお渡しし忘れました」とのこと。彼女はバーベキューソースではなく、責任感の強いアルバイトでした。
さて、せっかく追いかけてもらって恐縮ですが、走って届けるほどストローは重要でしょうか。走って届けるのがサービスであると言うのなら、ファーストフードのサービスはもっと雑でいいように思います。
なければないで、なんとかなる。私はたいていの場合、そう考えます。誤ってバーベキューソースを入れる店員にはひじ鉄を喰らわすおそれがありますが、ストローなんてものはあってもなくても気にしません。入れ忘れたことにケチをつけるほど、マスタードソースは辛口ではないのです。

おしゃべり 5月某日 晴れ

私の仕事の半分は、取材や打合せで初対面の人と会うことから始まります。末永くひいきにしてもらうという下世話な計算をしなくとも、仲良くなってソンする理由はありません。つまり、ひと通りの仕事が終わった際には、世間話で打ち解けるのが得策なのですが、じつは私はこれが不得意。インタビューのように、話のテーマが決まっている時にはよく動くこの口は、「どうぞご自由に」となると咳払いすら出しません。
私は、似顔絵を得意とする絵描きであり、真っ白なキャンバスに向かうタイプではないのです。
そういうわけで、ひと取材終わった現場では、カメラマンがせっせと機材を片づけますが、とくに片づけるもののない私と幾人かのまわりには、毎度のように不気味な沈黙が訪れます。3分も続けば拷問です。その中で私は、文字通り黙々と会話のタネを探すわけです。
まず検討するのが、天気の話です。しかし、たとえば風が吹き、去年より今年の方が暑かったとしても、それはおもしろい話ではありません。少なくとも私は興味がなく、相手も興味を示さないかもしれません。というわけで、これはパス。
ならば、店の話を考えます。「先日、おいしいイタリアンの店を見つけましてね」とか、そういった話なら少しは盛り上がるかもしれません。ただ、私はそういう店をまったく知りません。これもムリです。
テレビの話というのもあります。話題のドラマとかお笑い芸人とか、そういった話です。しかし私は、安藤さんのニュースと「さまぁ〜ずさまぁ〜ず」こそ欠かしませんが、ほかの番組はほとんど見ません。不得意分野です。
このシーズンは野球の話もあります。夏の墓参りと巨人ファンは我が家の数少ない伝統です。しかし、相手がアンチ巨人である可能性も否定できませんので、これはリスクです。
こういうタネ探しを一巡しているうちに、沈黙はいよいよ長くなります。初心にもどって「今日は風が強いですね」と切り出すにはいまさら遅く、3分も押し黙った末に天気の話かと思われるのも癪です。かくして今日も、「では、お先に」と言い残して拷問から抜け、家に戻ってきたわけです。
かつて、小学校のころにもらっていた通信簿には、並々ならぬ好成績とは別欄に「おしゃべりが過ぎる」と書かれたものです。口答えとウソ八百にも定評がありました。
従順だった少年は、注意されるがまま、努めて我が戯言より他人の話を優先させてきたわけですが、はたしてそれは正解だったのでしょうか。もしかしたら、おしゃべりという貴重な才能を退化させたのかもしれません。

せっかくビジネス 5月某日 晴れ

今年のゴールデンウィークは、休日の「並び」がいまいちですが、集客事情を取材してみると、ゴルフ場にも観光地にも、多くのお客が訪れたそうです。
商売(とくに客商売)には、年に何度か「黙っていても売れる時期」があります。年末年始、GW、夏休みなど人が集まりやすい大型連休がそのひとつですが、細かくみれば、クリスマスや、個人の誕生日や結婚記念日といった特別なオケージョンなどもそれに含まれます。むしろ、そういった時期を狙ってどれだけ準備できるかによって、売上げが変わるといってもいいかもしれません。
こういう時期に効果が上がるビジネスを、私は「せっかくビジネス」と位置づけています。つまり、「せっかくの連休だから」「せっかく来たから」「せっかくの記念日だから」といった心情をうまくついて、プラスアルファの消費をうながせるビジネス。接客業ならぬ、「せっかく業」です。
そもそも日本人に限らず、消費者というのは「せっかく」に弱いんですね。「贅沢したい、でも、もったいない」という倹約の美徳も、なにか「せっかく」な理由がつくと、「じゃあ、せっかくなんでノノ」となります。正月に鯛を食べ、クリスマスに豪華なディナーを食べるのもその典型。「せっかく文化」です。観光地のお土産屋も、結婚式関連も、「せっかく需要」で成り立っている部分は少なくありません。世間では、「せっかくオリンピックがあるから」と、薄型テレビやDVDレコーダーが売れたり、私もことあるごとに「せっかくだから」とちょっと高いワインを買ったり、この場合、なにがせっかくなのかはわかりませんが、「せっかく」と考えると、贅の心が解き放たれるわけです。むしろ、「ここで贅沢しなくて、いつするんだ」という錯覚すら生じます。せっかくから生まれる錯覚です。
そもそも「せっかく(折角)」という言葉は、「力を尽くすこと」という意味から転じたようですね。朱雲という人が五鹿に住む充宗という人を言い負かした際、人々が「鹿の角を折った」と讃えたという故事に由来するそうです。簡単に解釈すれば、「力を尽くして頑張ったから、じゃあ、特別にノノ」ということになるでしょうか。
さあ、そうなると話も少し変わります。
正月やクリスマスを迎えるにあたり、私はどれだけ力を尽くしたか、たいして尽力していない私が、結婚記念日に高いワインを飲む資格はあるだろうかと、「せっかく」を理由に贅沢する根拠を検証しなければなりません。おそらく、自分自身の評価に甘いことに気づくことでしょう。今夜はそんな日常を、少し反省してみたいと思います。せっかくなので、ワインでも飲みながら。

効率化と豊かさ 5月某日 晴れ

ある製造業の社長に取材させていただきました。これまで中国を中心としていた製造拠点を、効率重視で、インドやバングラデシュ、ブラジルなどに展開していくというお話です。中国内の人件費や材料費は、経費削減効果が薄くなるくらいまで上がったようですね。
効率化を目的として、企業では人件費を含む経費や労力の削減、時間の短縮といったことが行われます。経費、労力、時間といったものを「資源」とすると、「効率=成果/資源」ですから、その分母を小さくしようという取り組みです。
では、それが効率化の主たる目的かというと、じつは、そうではないんですね。
資源の最小化は、経営や労働の負担を軽くすることにはなりますが、それによって達成できる目的は半分だけ。残りの半分は、効率を追求して生まれた資源(経費、労力、時間など)を別の仕事に投じ、新たななにかが生産できた時に達成されます。つまり、「経費が半分で済んだ」「時間が三分の一にできた」で喜ぶのではなく、「さて、節約できた分でなにをしようか」と考えることが重要なわけです。
いまや「効率」は日常的に使われる言葉となり、「効率が良い、悪い」という判断基準でものごとを見る人も増えました。カーナビや乗換案内が普及した背景にも、効率重視の傾向があります。しかし、短縮できたその時間で、「ボーッとテレビを見ていた」「居眠りしてた」というんじゃあ、効率化したとは言えません。
そもそも社会は、あらゆる人が分業することによって効率が良くなり、便利になりました。自分で米を育て、家を建てなくても、お金という対価でそれを担ってくれる人がいます。結果として、私たちは他のことに使える労力や時間を得るわけですが、じつのところ、それを有効に使えず、もてあましているケースが多いのではないでしょうか。効率が良くなる一方、社会がいまいち豊かにならない理由は、資源の削減にのみたくさん工夫する一方、残り半分(=新たななにかへの投資)をなおざりにしていることが原因ではないか、と私は密かに思っております。

プラマーク 4月某日 晴れ

相変わらず、エコ関連の原稿や企画に携わらせていただいております。私は若輩者ですが、それらを通じてエコについて多少なりとも勉強になった気がしています。
ところで、過日より弊宅地域においてプラマークゴミの回収が始まりました。私は若輩者であり、ならず者的な要素すら持っていますが、多少は常識人な部分もありますので、こういう活動にも協力します。
プラマークゴミの出し方を読んでみると、ものすごく細かい指定や指示があるんですね。たとえば、「マヨネーズなどの容器は、水洗いしてきれいにしましょう!」とか、「ラップ(総菜などについているもの)の値札シールははがしましょう!」とか。「ノノしましょう!」と言われても、結構、手間です。私はならず者の要素のほか、神経質という要素も持ちます。したがって、「ノノしてください」と書くべきではないだろうかと、そういう細かい点も気になります。
まあ、やりますよ。分別します。
でも、腑に落ちないところもありますよね。水洗いする際の水の消費についてとか、総菜のラップに値札を貼らないよう規制する方が先じゃないかとか。もちろん、消費者に手間を負担させすぎではないか、という点を含めて。
「エコ」を企業の売上げやイメージアップにつなげようとする例は周囲にたくさん見つかりますが、「エコ」を謳い、手間を消費者に転嫁しようという風潮も、これを機に増えていきそうな気がします。私は神経質であり、面倒くさがりですので、率直に言えば、プラマークつき商品を買い控えたい気がしました。もし、そういう消費者心理をつくことによって、マクロな視点で石油製品の消費を抑えようというエコ戦略なのだとすれば、これは非常に高度です。面倒くさがりで、易きに流れる私にとっては、効果てきめんです。

冷たいジョージア 4月某日 晴れ

なんだか愚痴っぽい話が続きました。GW前の忙しさに、心が荒んだせいかもしれません。なので、ちょっとやわらかい話をしましょう。
人の生活には、パターンがあります。何時の電車の何両目に乗るとか、どこのコンビニでなにを買うとか、一種のリズムのようなものです。会社員でない私の毎日はリズム感が薄いのですが、それでもまあ、起床時間が決まっていたり、週単位では、定期的な打合せや勉強会があったりします。車で行く定例の打合せには、ホットの青いジョージアを飲みながら運転して向かう、というのも、ひとつのリズムです。
ということで、先日もいつも自販機でいつものジョージアを買いました。しかし、出てきたのは冷たい缶。春になり、「温かい」が「冷たい」に入れ替えられですね。
まあ、誰を責めようにも、確認しなかった私のせいです。久々に飲む冷たいジョージアもおいしかったですし、それをきっかけに、歩道を行く人々の装いが春色に変わっていることにも気づきました。
リズムは、毎日を滞りなく過ごす上で大事です。人には、不変の「なにか」を求める傾向もあります。ダイアモンドの価値が高いのも「永遠の輝き」を持つからでしょう。一方、あえてリズムを崩してみるってのも、場合によっては悪くありません。普段は見えないものが見えることがあるからです。要するに、ワンパターン思考やマンネリズムの打開ですね。
そんなことを思ったので、打合せの帰りは、いつもとちがう道を運転してみました。「時間がかかった」という点と、それを少し後悔した点をのぞいてコレといった変化はありませんでしたが、そんな話をしつついただくカミさんとの夕食は、いつもより楽しい時間になった気がしました。

「拒否」という選択肢 4月某日 晴れ

学生の時分、渋谷の居酒屋でアルバイトをしていたことがあります。場所柄、学生の団体(サークルとか部活とか)の飲み会がよく入ったのですが、当時、そういうテーブルを担当するのが非常に憂鬱でした。
理由は単純で、まず、うるさいでしょ。また、ハメをはずして酔う人も多い。さらに、お金がないもんで、一番安い飲み放題のコースを頼みます。頭数こそ多い割に、利益率が悪いんですね。なにより気の毒なのは、近くの席で飲んでいるサラリーマンやカップルなど、いわゆる一般のお客さん。隣で大騒ぎされたんじゃあ、ろくに話もできません。「私が経営者なら、学生の団体は入れない」と、密かに思ったものです。
あれから十余年が経ちました。先日、テレビで長野での聖火リレーをみていたところ、ふと「学生の飲み会」を思い出しました。うるさく、ハメを外す人が多く、儲らないという共通点があったためです。やはり、近隣の一般住民が気の毒だなあとも感じました。オリンピックとかチベットとか、そういうことに私はとりたてて意見はありませんが、私が担当者なら、自分の土地にリレーは呼びません。
居酒屋にも観光地にも、「人を集めなければならない」という宿命があります。とはいえ、「売ろう!」「稼ごう!」で、経済効果や知名度アップに注目しすぎるのはいかがなものでしょうか。「拒否」する場合のメリットにも同じ比重を置いて注目しないと、迷惑を被るのは、たいてい平穏無事な時間を求める一般人です。決断においては、「やろう!」という選択肢がポジティブで、「拒否する」という選択肢がネガティブだと捉えられがちですが、この2つは同価値である、と私は思います。

ルールの裏側 その2 4月某日 晴れ

ルールには、好き勝手する人の行動を制限する効果があります。とはいえ、完全に制限できるわけではありません。ルールが制限できる限界は、その裏側にある「罰則」と同じです。つまり、「最大の制限効果=罰則の重さ」です。
来年から始まる裁判員制度で考えてみると、裁判員となった人は「正当な理由なく欠席してはいけない」というルールがあります。これが、制限の部分。その裏側には「守らない場合は10万円以下の過料」という罰則があります。
ちょっと知恵の効く人であれば、この罰則の部分に着目するでしょう。すると、「10万円払うから、行かない」という発想が生まれます。人は誰でも、経済の原理で利益が最大になるよう行動しますので、欠席することによって10万円以上の利益が出せる人ならば、そちらを選択した方が合理的とも言えます。
つまりここが、ルール(や法律)の限界。「罰則<効果」が成り立つ場合、ルールで人を制限することはできないわけです。
たとえば、「売れる」と思っている企画があり、それが上司に反対されていたとします。ドラマなどではよく、男気ある先輩が出てきて、「社長には俺が代わりに謝ってやる。オマエの好きにやってみろ!」みたいなことをやっています。感動的ですね。でも、秩序は乱れます。社内のあちこちでそんなことが起きたら、会社はおそらく崩壊するでしょう。「謝る<自由にできる」と考える人に、ルールはもはや意味をなさないのです。
こういう思考は、ルールでは制限できません。「ダメなもんはダメ」という、ルールとはまったく別の基準が必要です。「弱いもんをいじめちゃダメ」とか「ウソをついちゃダメ」とか、そういうものに近い基準。親が子どもに叩き込むようなことですね。
最近、社員教育やそのプログラム内容の充実に力を入れる会社が増えています。大半は、マーケティングや社会学、セールススキルなどを掲げていますが、なかには、「小学校みたいな内容だなあ」というプログラムもあります。じつは将来、こういう教育が会社の底力になるような気がします。

ルールの裏側 4月某日 晴れ

私はよくお酒を飲みます。とはいえ、家ではあまり飲まないんですね。飲むのはカミさんが休みの日だけ。元来、ルールを重んじない性分なのですが、なぜだかこれは長く遵守しています。
じつは、このルールというのが曲者なんですね。「カミさんが休みの日は飲める」というのが本来の形なのですが、どういうわけか「カミさんが休みの日は飲まねばならない」というふうに捉えるようになるからです。ルールは、「制限」することに意味があるのですが、その裏側にある「許可」にも縛られるようになるのです。
まあ、お酒なら、飲みたくない日は飲まなければいいだけの話です。では、組織におけるルールはどうでしょうか。
たとえば、「8時出社」というルールがあります。これは、「8時までに出社しなさいね」という制限ですが、たいていの人は「8時までに行けばいい」という許可だととらえているのではないでしょうか。有給休暇は「自由に休めるのは○日間まで」という制限です。しかし、許可という点に着目すると、「有給を消化しなければならない」という発想が生まれます。会社にも「有給を許可しているんだから、取ってもらわなきゃ困る」という発想が生まれます。「上司に言われて、明日は有給を取らなきゃいけない。だから今日は徹夜で仕事だよ」なんて、本末転倒なことも起きます。
世の中の会社は、たくさんのルールを設けています。私はこれらをすべてやめちゃえばいいと思っています。効率や利益を高めるには、許可に着目する視点が邪魔になるからです。ただ、これらは制限と表裏一体なので、ならば、ルールを丸ごとなくしちゃうしかありません。制限がなくても、モラルのある人たちはきちんと仕事をするでしょう。そうなってはじめて、人の質の良し悪しというものが見えてくるのだと思います。

渋滞学 4月某日 晴れ

出張取材で、茨城県へ行ってきました。車で片道2時間の距離なのですが、帰りは高速道路が渋滞し、3時間ほどかかりました。
私はなんたって、「混む」「待つ」「並ぶ」といったことが大嫌いです。飲食店でも、待つなら別の店に行きます。欲しいものがあっても、レジが並んでいる場合は、買いません。当然、渋滞も大嫌い。まあ、渋滞が好きという人もいないでしょうけど。
さて、なぜ渋滞が起きるのか。
最も大きな原因は、3車線の真ん中を走る人にあると私は思っています。
3車線の高速は、左レーンから順番に、遅い人、普通の人、速い人が走る仕組みです。実態としてそうなっています。すると、多くのドライバーには「俺は普通の人だから、真ん中を走ろう」という意識が生まれます。「速くはないけど、遅くもないだろう」という考えです。
ここに原因があります。つまり、「俺は普通である」という自己評価が、実は過過大評価である場合が多いのです。
スピードというのは相対評価で考えるものですから、仮に80キロで走っていても、周囲が100キロや120キロで走っている場合には、「俺は遅い人」と認識しなければなりません。真ん中を譲って左レーンをベースにして走れば、全体の平均速度が上がり、混雑は緩和されます。「80キロ」というスピードは、絶対評価の話。「真ん中を走る」は、相対評価によって許可される話。この2つはまったく別の基準であり、「80キロで走る」と「普通のスピードだから、真ん中を走る」は、イコールではないのです。
会社などの組織においても、「俺は優秀ではないが、普通である」という自己評価が、実は過大評価であり、「普通以下」である場合があります。仕事の能力というのも相対評価ですので、「コレとアレをやった」という絶対評価とは別の基準が存在します。なにかと業務が滞る原因を分析してみると、「普通である」と自己評価している人にたどりつく場合も多いのかもしれません。
そんな結論にたどり着いたところで、ようやく愛しき我が家にたどり着きました。

詳しくはウェブで 3月某日 晴れ

ある商品のパンフレットを作成しました。作ったのはだいぶ前なのですが、先日、そのパンフレットが店頭に置かれているのを見かけました。
そこで思い出したのですが、当時、その商品内容について下調べしたところ、いただいていた資料ではいまいちわからないところがあったんですね。そこで、直接カスタマーセンターに電話し、聞いてみることにしたわけです。
さて、オペレータの説明を受けたところ、不明だった点はよく理解できました。私がお客だと思ったようで(カスタマーセンターに電話したので当然ですが)、非常に丁寧に解説してくれました。
ただ、気になったのが、説明の過程で、「ウェブの方にも書いてありますがノノ」とか、「詳しくはウェブでも紹介しておりますがノノ」とか、私(というか、お客)がウェブサイトを見ることを前提にしていた点。最近はCMでも、「詳しくはウェブで」で締めくくるものが増えましたが、そういうスタンスは、非常に不親切だと私は思います。消費者がいちいち手間をかけてウェブを見るでしょうか? 見ませんよね。私は見ませんよ。面倒ですから。そもそも、「ウェブを見てください」で済むのなら、「じゃあ、電話に出ている君の仕事はなんなのさ」「CMを作る意味はなんなのさ」という話にもなります。
結局、パンフには細かな説明を入れました。でも、「ウェブでフォローすればいい」という風潮を解決したことにはならないでしょう。カスタマーセンターに電話すると、おそらく「詳しくはパンフレットにも書いてありますがノノ」と言われると思います。

ネコと人 3月某日 晴れ(花粉過多)

ある会社を訪れた際、玄関先で春闘を行っておりました。たしか、去年も同じ時期に、同じ場所で、同じ光景を見た気がします。一年って、すぐに経つんですね。
春闘とはいっても、「万国のプロレタリアよ、団結せよ」(カール・マルクス/共産党宣言)のようなアツいデモではありません。のぼりを持った組合員がチラシ配っている程度です。本質的に平和主義の私にとって、声を荒らげず、紳士的に抗議する日本人の美学は好感が持てます。
その点、アメリカなんかではしょっちゅう大きなデモが行われていますね。メジャーリーガーやハリウッドの脚本家がストライキを起こすこともあります。捕鯨船につきまとうチンピラは論外として、海外における抗議行動に、動物的な臭いを感じるのは私だけではないでしょう。
弊宅には動物(ネコ2匹)がおります。彼らもたまに、エサ台が空になったことに抗議し、早朝からミャアミャアと鳴くことがあります。「エサがないよ」「早く起きて、エサちょーだいよ」という催促です。もっとも、私もカミさんも、起床時間の8時半までは布団から出ませんが。
抗議行動とは自己主張のひとつであり、大切なことです。一方では、ネコの例に見る通り、ミャアミャア鳴くほどお腹が空くという現実もあります。エサをもらうための行動が、自らの体力を消耗させ、空腹である現状を悪化させるという矛盾があるわけです。その点において、腹が減らない程度にデモを行う日本人はネコより利口であり(現実主義とも言えますが)、また、各国で声を荒らげるデモ隊に動物の臭いを感じる理由も、ここにあるのだと思います。
さて、8時半を過ぎたころ、カミさんがエサを皿に盛ります。ネコはそれをちょこっとだけ食べて、「ああ、落ち着いた。ひと眠りしよう」なんてやっています。ネコというのは、たくさんエサをやっても、いま必要な分しか食べません。イヌは全部食べちゃいます。この点においては、ネコはイヌより、また、人よりも賢いかもしれません。
人はというと、「ボーナスがアップしたぞ。よし、今夜は焼き肉だ、薄型テレビも買おう」なんてことで、抗議によって得たもので贅沢しちゃうわけですからね。
春闘であれデモであれ、いかなる抗議行動をもってしても、上司と部下、あるいは、経営者と労働者は、永遠にわかり合えないというのが私の持論です。男と女の友情が成立しない(と考える)理屈にも似ていますが、そもそも目的も存在理由も異なるわけですから、おそらく来年も、同じ時期に同じ場所で同じ光景を見ることになるでしょう。くり返しです。スパイラルです。フリーランスの私にとって、春闘はまったくといっていいほど無縁です。ただただ、ネコのように腹8分目で生きたいと思うばかり。たしか、去年もそう思った記憶があります。やはり、くり返しです。スパイラルです。

本の賞味期限 3月某日 晴れ(花粉大量)

世の中のサイクルというのは早いですね。賞味期限を偽装したところも早々に経営方針などを改め、復帰営業をしているようです。まあ、「謝れば許される」という問題ではないと思うので、弊宅では特定の商品は購入しませんが、そういう私見はさておき、本の世界にも賞味期限というのがあります。夏目漱石の「こころ」とか、三島由紀夫の「仮面の告白」とか、そういう文学は別として、ほとんどの本には賞味期限があります。情報誌でなくても情報は更新しなければなりませんし、言い回しひとつとっても、古いものは毒だと思っています。
ということで、おかげさまで10万部の発行となった「28歳からのリアル」は、5年前に作った本であるという点から新たに作り変えることにしました。「28歳がやっておくべきこと、考えておいた方がいいことなどをまとめる」という本質は変えず、情報はもちろん、構成や原稿もほとんどリニューアルしました。前版より数段良い原稿になったと思っております。
取材後記ではなく、なんてことはない、ただの宣伝で恐縮ですが、たった1400円(税別)で明るい30代が見えてくるなんて、なんていい本なんでしょう!

勝負の行方 3月某日 晴れ

丸紅の社長インタビューに行ってまいりました。明るく、ポジティブで(声が大きいこともあるのですが)、非常にパワーを感じる方でした。また、愛妻家で、家族を大事にする方でもあります。優れた社長というのは、たいてい家族を大事にするようですね。家族を守り、育て、時には愛をもって厳しく接するという父の気質は、社長としても重要なのでしょう。
さて、取材時間は約30分。この間に聞いたことを3,000字の原稿にしなければなりません。取材とは、書いて字のごとく「材料を取る」作業ですので、3,000字の原稿を書くためには、それ相当の材料になる話をしていただく必要があります。
もっとも、相手が社長クラスの人になると、そういった心配はほとんどいりません。
こういう方たちは人生経験が豊富なので、材料になる話や意見、エピソードをポンポン出してくれるからです。また、取材する側がどんな情報を欲しているか、察する力にも長けています。要するに、相手が読めるということ。相手が読めるから社長になれたのか、社長だから相手が読めるのか、それはチキンorエッグな話ですが、ともかく今回も無事に、3000字分書ける情報が揃いました。
前にも書いたかもしれませんが、インタビューの良し悪しは、インタビュアーのテクニックどうこうではなく、相手の方の素質で決まる、と私は思っています。
とはいえ、インタビューがうまくいかなかったら、それはインタビュアーの責任。相手が話につまったり、聞きたい話をしてくれなかった場合、その原因は、「こういう話を聞きたい」とか、「こういう読者に、こういう話を紹介したい」など、インタビューの目的や概要を提示する段取りでしくじっている場合がほとんどだからです。下調べが不十分な場合も、往々にしておかしなインタビューになります。
言い方をかえれば、インタビューがうまくいくかどうかは、事前の打合せと意思の疎通をはかるところで、ほぼ決まるということなんですね。と、いうことに気づいて以来、私は大物相手のインタビューでも緊張しなくなりました。

マネジャーとリーダー 2月某日 晴れ

取材をもとに原稿を書くのが物書きの商売ですが、私の場合、その一方で、アメリカ人ジャーナリストなどが書く「組織論」や「リーダーシップ論」の翻訳なども行っています。
まあ、お国柄の異なる人たちの意見ですから、日本人社会に向かない思想もあるのですが、意外にも「いいこと言ってるじゃん」といった記事もあります。たとえば今月は、管理職にある人に「あなたはマネジャーなのか、それとも、リーダーなのか」と問いかける記事。なかなか的を射たことが書いてありました。
記事によると、マネジャーは「過程」を管理する存在。一方のリーダーは、「人」を管理する存在。要するに、部下に対し、その都度なにをすべきか命じるのはマネジャーの仕事。リーダーはそこにとどまらず、部下が会社の使命とともに生きることをコーチしていく存在、ということです。結果、マネジャーの下にいる部下は、アルバイト感覚で言われたことをこなすだけになり、リーダーの下にいる部下は、自分で考えて行動するようになる。そういう差が表れてくるわけですね。
親子の関係にも、おそらく同じことが言えます。「勉強しなさい」「歯を磨きなさい」と命じるのはマネジャー型の親。勉強したり、歯を磨いたりする必要性を考えるよう、うまいこと誘導していくのがリーダー型の親。体罰と躾、怒ると叱るといった差も、こういうところから生まれるのでしょう。
リーダーにしても親にしても、人を管理するというのは大変なことです。私も仕事がかさんだ際などには「人を使う」ことを考えることがあります。ただ、その度に大変さを想像して二の足を踏み、結局自分でやることになります。そういえば別の記事に、なんでも自分でやってしまうリーダーを「自己破滅型」と書いてありました。これもまた、なかなか的を射ています。

私はなにをしゃべったのか 2月某日 晴れ

経済学の本を書いたことがきっかけで、パチンコ雑誌の取材を受けました。とはいえ、取材を受けたのは昨年末。以来、バタバタしていてすっかり忘れていたところに、編集部の方ができあがった本を送ってくれ、そういえば、と思い出したわけです。
取材を受けた記憶すら薄れているわけですから、話した内容の記憶はさらに薄れています。果たして私は、なにを話したのか……。怖いもの見たさでページをめくり、おかしなことを言っていない自分に安心した次第です。
こういう取材は過去にも幾度か受けたことがあるのですが、毎度、同じような危機感を覚えるのはなぜなのでしょう。危機感というのはつまり、散々飲んで記憶がなくなった自分の様子を、後日、教えてもらうような怖さ。もっとも、お酒の方では、あることないこと、テキトーな話をしていたり、正気とは思えないことをやった自分の様子が発覚し、とてもひと安心というわけにはいかないのですが。そんな性質を隠し持つ私に取材をかけてくれた勇気ある編集部の方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

粘り勝ち 2月某日 晴れ(浜松)

過日、浜松で伺った自動車の新技術開発について、印象的だった話を紹介しましょう。研究者さんによると、開発過程においてどう悩んでも解決できない問題が1つあったそうです。何度も設計図を引き直し、思いつくことはいろいろ試し、しかしそれでも、解決に至らない。
しかし、です。神はこういう努力家を見捨てないんでしょうね。大きな進展のないまま1年が経ったころ、ある朝目覚めた時に、ふとアイデアが浮かんだのだとか。
「毎日そのことばかり考えていたから、ヒントになる夢をみたのかもしれません」と、同氏。それが問題解決につながり、結果、新技術に結びつくことになります。
「夢がヒントになるなんて不思議!」という話ではありません。夢に出てくるくらい、毎日そのことばかり考えていたから報われた、という話です。
京セラの稲盛氏にも、似たようなエピソードがあります。背景は似ていて、技術開発に悩んでいた部下に、稲盛氏が「神に祈ったか?」と聞いたという話。これもやはり、「あとは神に任せよう」という意味ではありません。神に祈るしか残されていないくらい、あらゆることをやったのか? という問いかけです。もしまだやっていないことがあるなら、やってみようぜ、ということです。
人は大別して、「諦めが早い人」と「粘り強い人」とに分けられるでしょう。「サッパリしている人」と「しつこい人」とも言えますので、どちらがいいという話ではありませんが、私はわりとスッスと諦めるタイプ。パチンコだけは結構粘りますが、その他のことにはとくに未練無し。ひっかえとっかえです。環境と映画の記事を同時進行で書いたり、株式のデータを分析しつつサービス業について考えるような物書き商売には、そういう気質が合っているような気もするのですが、そうはいっても、たまにはなにかを粘り通したり、1つのことをじっくり考えることも必要だよなあと、浜松にて少し反省しました。

餅屋の婆さん 2月某日 晴れ(浜松)

浜松に行ってきました。詳しくは書けませんが、自動車部品に関する新しい製造技術について、研究者さんからお話を聞く取材です。日本車が世界的に評価される背景には、こうした研究者さんたちの下支えがあるんですね。セレブの弊宅は外車ですが、ホントのセレブになったらレクサスに乗ろうと思います。
さて、伺った営業所がある場所というのが変わった地名で、「小豆餅(あずきもち)」といいます。
なんでも、武田信玄に敗れた徳川家康(三方原合戦にて)が、這々の体でこの地の店に寄り、小豆餅を食べたのだとか。また、武田軍の追っ手がやってきたため、餅代を払わずに飛び出した家康を店の婆さんが追いかけ、つかまえたという話もあります。本当かどうかはわかりません。ただ、近くには、婆さんが餅代を徴収したと言われる「銭取」という地名があります。
地名をひとつのネーミングを捉えると、そこには歴史の奥深さがあります。市町村合併が増えた昨今では、その過程で消え行くおもしろい地名もあることでしょう。まあ、それは仕方のないことだとしても、歴史ある地名をなくし、一方で「ひらがな町村名」を採用するのはいただけません。流行りなのかもしれませんが、なんか安易というか、歴史を軽んじている気がするというか、なにがどう変わったのかがいまいち伝わってこないからです。
経済的事由で合併したのであれば、思い切って「銭無」といった名前にしてはどうでしょう? つまり、○○県銭無町。覚えやすいですし、合併した背景がすぐにわかります。命名直後は不名誉な感じがするかもしれませんが、後に権力者になった家康だって、「銭取」という地名を変更させませんでした。
「あの頃は、武田軍にこっぴどくやられたし、餅屋の婆さんにもつかまったし、散々だったなあ。ハッハッハ」といった寛大さを感じます。貧乏な時があったり金持ちの時があったり、無名な人が有名になったり、歴史というのはそういう浮き沈みのくり返しと交錯ですから、「銭無」という町名だって、100年も経てば、「この町もかつてはお金がなく、合併したんだなあ」といった話のネタになることでしょう。歴史に名を刻むというのは、そういうことなのだと思います。

記憶術 2月某日 晴れ

GDOという会社へ言ってきました。ゴルフをする方なら、一度は使ったことがあるかもしれません。ゴルフダイジェストオンライン。略して、GDOです。
名称が長く、呼びづらい場合、日本ではよくキムタクとかミスチルとか、単語の頭をとって略すことが多いですね。しかし、同社の場合はゴルオンとはいいません。GDOです。
頭文字のアルファベットを取るつめ方は、JALとかBMWとか、国境を超えてビジネスする企業に多く、アメリカにもよく見られます。FBIとかCIAとか、DEA(連邦麻薬取締局)、FRB(連峰準備銀行)、ALO(アメリカオンライン)、FDR(フランクリン・D・ルーズベルト元大統領)なんてのもあります。テレビの名称も、日本では日テレとかテレ東なんてつめ方をしますが、アメリカではABC、NBC、CBSなど。
私はこのつめ方が覚えやすく、気に入っています。そのため、パソコン内のフォルダも、GLD(ゴルフダイジェスト)、TRC(トランスコスモス)といった名前をつけていますし、日常生活では、買い物の際にも活用しています。たとえば、飴と電池とメガネ拭きを買う際には、ADMと覚えます。すると、移動中に思いついた場合にも簡単に覚えられますし、せっかく買うものを紙に記したのに、その紙を持って出るのを忘れた、なんてこともありません。意外と便利でしょ?
まあ、欠点もあるんです。今日もKFBと覚え、近所で切手(K)と封筒(F)を買いました。しかし、Bがなんだったか思い出せない。アルファベットと買おうとしている商品とのリンクが、外れてしまうことがたまにあるわけです。
この部分が改善されれば、買い物だけでなく、人名とか地名とか、予定などを覚えておく際にも活用できる記憶術になると、私は密かに確信しております。さらなる進化を目指し、あれこれ工夫してみたいと思います。
それにしても、Bってなんだっけかなあ。

営業のコツ 2月某日 晴れ(寒い)

たまーにですが、このページを経由して、「ライターになりたいのですが、大変ですか?」「編集者になりたいのですが、どんな技術が必要ですか?」といった質問メールをいただきます。
まあ、あまりおすすめできる商売ではありませんが、いただいた質問にはできるだけ正直に返信しております。なかには、「稼げますか?」というものもありました。やはり、「たいしてもうかりません」と、正直に返信した次第です。
こうした質問の中で、ひとつ答えに困るのが、「どうやって仕事を増やすか」「営業はどうやってやるか」というもの。というのも、私は営業をしたことがないからです(たいしてもうからない理由もおそらくここにあると思います)。
私の場合、最近はホームページや拙著などを通じてお仕事をいただくこと増えましたが、ほとんどは「紹介」です。かつて一緒にお仕事をした方が、知り合いに私のことを案内してくれたり、その方が別の会社に移り、そこでの案件で連絡をくれたり。そういうお話を優先してきた結果、営業することなく今日に至っているわけです。
知り合いに聞くところによると、出版社に電話してアポを入れたり、企画や原稿を送ったりして営業しているライターさんもいらっしゃるようですが、詳しいやり方やコツはよく知りません。せっかくメールをいただいて恐縮なのですが、「どうやって営業してやるか」という質問は、ほかの方に聞いてみてください。

人気者の条件 1月某日 晴れ

佐藤隆太さんの取材に行ってきました。時間はなんと、撮影込みで15分。昨今稀にみる短時間取材ですが、おそらくムリをして我々の取材を差し込んでくれたのでしょう。ご担当の方と、その短い時間の中で懸命に話をしてくれた佐藤さんに感謝するばかりです。
インタビュー取材の良し悪しは、取材相手の人柄でほぼ決まります。とくにタレントさんは周囲の空気を変える力を持っているため、その傾向が強くなります。「別に……」会見が典型的な例です。
一方で、ライターやカメラマンの間では、「あの人はいい人だった」「そうでもなかった」といった情報がまわっています。これらは取材した方々の経験談ですから、信憑性もなかなかのものです。
さて、佐藤さんです。
ご存知の方もいるかと思いますが、彼はあらゆるところで評判が良いんですね。「取材応対が素晴らしい人」の代名詞。で、実際も評判の通り。
具体的に言えば、礼儀正しく、腰が低い。取材内容も事前にきちんと把握してくるし、裏表を作らず、誠実に答えてくれる。周囲への気配りにも優れ、頭の回転も早い。要するに、人間性に優れているというか、俳優という職業を別としても、一緒の時間を過ごしたくなる魅力を持っているわけです。
iPodやプリウスなど、売れるモノにはなにかしらの理由があるわけですが、売れる人にもやはり、「芸」や「熱意」など、必ずなにか理由があります。昨今は、「人柄」が重要なポイントになっているのではないでしょうか。大物であれ人気者であれ、腰が高い人が世渡りできる時代ではなくなった、ということです。ちなみに、私が取材にて、感動するくらい素晴らしい人だと感じたのは、GLAYの面々、安藤優子さん、桃井かおりさん。ほかにも素晴らしい方はたくさんいましたが、ここに佐藤隆太さんを加えた4方が、私の中の四天王です。

物書きの良心 1月某日 晴れ

物書きという商売は、大量の紙を消費します。取材メモから始まり、資料に使う本や雑誌、校正紙、デザイン見本まで、見積書や請求書を含めれば、一冊の本を作るために消費する量はおそらく十冊分を超えるでしょう。樹木保存という点で見れば、褒められたもんじゃありません。
木々の恩恵を受けて商売をしている以上、なんらかの工夫をするのが義理というもんです。資料になる古い文献をデータ化したり、デザイン見本や校正、見積りや請求をデータでやり取りしたり、木をムダにしないために個人ができることは、限られつつも、いろいろあるように思います。
ということで今年は、いま一度、紙の有効的な使い方について考えてみたいと思います。もちろん、目的は「環境保護」なんて立派なものではなく、紙の消費をくり返す中で感じる小さな罪悪感を、できるだけ小さくしたいだけです。いいアイデアをお持ちの方、ご一報お待ちしております。

スピード 1月某日 晴れ

ITづいているようです。いくつか抱えているインターネット媒体での仕事とは別に、IT大手、楽天に行く用事ができました。
楽天といえば、弊家のルーツである仙台に多大な経済効果を生んでくれている企業。
密かなる感謝の気持ちを胸に、ギロッポンに向かおうと思っていたのですが、ヒルズから品川に移転したのだとか。住所をたどると、パナソニックの隣に立派なビル(楽天タワー)が見つかりました。ちなみに、当日はどうやら採用面接を行っていたらしく、受付の大広間には順番待ちの人がたくさん。大きな新ビルもすぐに手狭になりそうな勢いです。
さて、楽天は、その事業センスもさることながら、対応の早さが素晴らしい。通常、我々が取材(対面)を行う際には、まず広報部などに申し込みを入れ、取材主旨などを検討していただき、詳細をつめ、日程を決めるといった段取りを踏みます。たいてい、2、3日かかります。
しかし、楽天の場合は実に迅速。最初の連絡を入れてからものの数時間もしないうちに、取材に応じてくれる担当者を決め、取材日程の候補をあげてくれました。後日談になりますが、原稿の確認・修正も即日対応でした。
大きなビルが建つくらいの急成長は、このスピード力にあるのかもしれません。明日から手を付ける予定(でも、結局、明後日からやる)の資料やレイアウト用紙が重なり、机の上に小さなビルを作っている私とは大きな違いです。

今どきの取材スタイル 1月某日 晴れ

大手インターネット配信の会社にお邪魔してきました。08年の取材は、電話取材をのぞけば、これが「取材はじめ」。広報の方に、インターネットの現状と今後について詳しいお話を聞く、というインタビューです。
印象的だったのは、担当者がラップトップ(ノートパソコン)を持って社内を移動しているということ。取材時もラップトップ持参で、PC画面(内のデータ)を見ながらインタビューに答える、というスタイルになりました。
こちらは紙とペンでメモを取る。向こうはPCを見ながら情報を出す。そのやり取りの間に、アナログとデジタルの境界線が見えました。産業革命の前後とか、江戸から明治への転換期とか、なにかの過渡期には、こういう境界線が生まれるものなのでしょう。
今どきは、あらゆることがパソコンでできます。また、パソコンでやるよう、社会が求めます。物書きである私も、手書きの原稿を納めたことはほとんどありません。また、時代はものすごく早いスピードで、「あらゆることをケータイでやる」という方向に進んでいるのだとか。近い将来、ケータイ画面を見ながら取材に応じるという人も出てくるかもしれません。

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ライター 伊達直太

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