ライター伊達直太/取材後記2012

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取材後記 2012

壁について 12月某日 晴れ

 年末になると、新卒採用に関する資料づくり、ウェブサイトづくり、採用イベントの企画などの仕事が増える。
 会社に属さない私がいうのもおかしな話だが、会社勤めをするなら、会社選びを入念に行った方がよい。給与や仕事の内容はともかく、会社と自分の価値観が合わないと、仕事をしていてもきっとつまらなくなる。「何ができるか」は未知数だが、「どう働きたいか」は何となくイメージできていることが多い。そのイメージを掘れるところまで掘り下げて、自分(の価値観)に合う会社を見つけてほしいと思う。
 そんな余計なアドバイスはともかく、資料づくりのためにデータや傾向などを分析していたら、新卒入社3年以内の社会人の2人に1人以上が、仕事や人間関係などの「壁」にぶつかったことがあるという調査結果があった。
 どういう聞き方をしたらそんなとんでもない数字が出るのだろう、という疑念もあるが、一方で、若い人たちはそれくらいナイーブなのかもしれないとも思う。
 自慢ではないが、私は壁にぶつかったことがない。
 その理由は、才能や成果がどうこうではなく、そもそも壁というものは、あらゆることを試し、できるかぎりのことに挑戦し、全身全霊をかけて取り組んだけれども乗り越えられない何かのことを指すものだと思っているからだ。わかりやすくいえば、まわりから一流と呼ばれるようになって、はじめてぶち当たることができるのが壁である。
 私はとてもじゃないが、まだまだそのレベルには到達していない。
 だから、壁にぶつかるわけがないのである。
 偉そうなことをいえば、若き社会人が「壁にぶつかった」というのも、思い上がりである。世の中には「誰もが壁にぶつかるもんだ」という論もあるが、それもおかしい。誰もが一流に成長するとは限らない。
 それでも目の前をふさぐものがあるとすれば、それは壁ではない。ドアである。つまり、わざわざ乗り越えたり、壊したりしなくても、どこかにあるノブをひねればカンタンに開く。そのドアを何百枚と開いていった先で、「あれ? どこを探してもノブがねえぞ」というものにぶち当たったときに、もしかしたらそれが壁かもしれないということである。
「乗り越えよう」という思考を、「ノブを探そう」という思考に変える。
 たったそれだけのことで、仕事や人間関係や日常や人生が楽になることもある。じっさい、私の人生は楽である。いつか「やっと壁にぶち当たったぜ」といえる日がくるのを楽しみにしている。そのために、来年もひたすらドアを開けまくってやろうと思っている。

ネットについて 12月某日 晴れ

 多くの人にとって、ネットは非常に便利な存在である。
 我々のようなもの書き商売でも、調べものをするのにネットは不可欠である。
 ただし、あらゆるものごとにおいて、ひたすらよい、メリットしかないということはなかなかありえない。利便性というメリットを得れば、どこかで何かしらのデメリットも生じているはずである。
 ネットにおけるそれは何だろう。
 一般的には、誤情報がある、匿名性が高いからマナーが低下する、出不精になるなどが挙げられるが、そんなことよりももっと深く、本質的なデメリットがありそうな気がしている。
 たとえば、考える習慣が薄れることだ。
 ネットがあれば、場所や時間を問わずさまざまなことを調べることができる。だから、わからないことや、知らないことがあったとしても、「こうではないか」「ああではないか」と考えることなく、ダイレクトに検索に入れる。
 情報にいち早くたどり着くという点ではメリットだ。しかし、そこにたどり着くまでのプロセスがおろそかになる。
 それって「お金を稼ぐために働く」という発想と似ていないか。目的はお金なんだと思ってしまうと、仕事はそのためのプロセスだからどうでもよい、もうかるものほどよいということになりかねない。プロセスが二の次になれば、知識や技術も掘り下げられなくなる。
 街中やテレビ内での会話を聞いていると、「Aって、知ってる?」「知ってる。Aって、Bらしいね」「そうそう。しかも、Cなんだって」といった会話が多いように感じる。A、B、Cに入るのは、すべて情報である。つまり、会話のなかにAやBやCについて、自分がどう思ったか、どう考えたのかが入らない。
他人の会話のことだから、どうでもよい。
 でも、聞いていておもしろくない。
 だって、AやBやCは、すべてネットのなかにある。おもしろいのは、ネットにはない個人の考えだからと思うからだ。情報誌が不調で、情報番組がつまらない本質的な原因も、おそらくそこだろう。
 ネットが普及したということは、かんたんにいえば、個々がものすげえ辞書を手に入れたようなもんである。でも、辞書だけで世渡りはできない。幸せや成長やお金の源泉は、すべからく辞書に載っていないことだからである。

信頼と期待について 12月某日 晴れ

 秋口から年末にかけて、どういうわけか仕事が増えた。
 もしかしたらフリーになってからもっとも抱えたのではないか。
 むろん、do or dieであるフリーランスに断るという選択肢はないから、すべて「ありがとうございます。やらせていただきます」である。
 おかげで腰はやられたが、まだまだ徹夜できるだけの体力があることを発見できたのは大きな成果である。
 仕事が増えた背景には、一説によれば、政権交代による景気回復の期待があるという。そういえば、私のところに持ち込まれる仕事も企業関係の広告物が多い。
 政治が変わって景気が上向くかどうかはわからない。
 少なくとも私はそんな期待はまったくしていないので、仕事が増えた要因は、ただただ私の地道な日常にあると思っている。
 期待しなければ、裏切られたと感じることもない。それが私の政治に対する基本姿勢である。
 奇しくもアメリカでは大統領選挙が行われたが、あちらはバカみたいに大盛り上がりであった。選挙をショーとして楽しんでいる向きもあるが、政治に対する信頼や期待もさぞかし大きいのだろう。
 自立をモットーとするアメリカの人たちが、自分以外の誰かを信頼し、期待するという現実は、ちょっと不思議である。
 かつて、ケネディは「国があなたのために何ができるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問え」といったらしい。こういう論が国民の心に響くのも、政治が信頼されていなければならない。
 では、どうすれば政治が信頼されるようになるのだろうか。
 たとえばアメリカは、契約社会であるから、公約を破ったときのダメージも大きい。約束を反古にするなら、当人にそれなりの覚悟がいる。
 ところが、日本にはそういう条件がない。嘘をついてもいいし、約束を果たさなくても高給がもらえるようになっている。
 そんなシステムを信頼しろといわれても、私にはできない。私には特技も取り柄もないが、約束は案外守る。待ち合わせの時間に遅れることもないし、締め切りも守る。おごるといったら、おごる。それが正しいことだと信じているし、仕事が増えた一因もそこにあると思う。
 約束を破る。ウソをつく。
 大人がそれをやるから、子供がまねる。
 そういう人たちの集団である政治が、「子供のため」とか「子供の未来」などと簡単に口にする現実も、これまた不思議である。

『パチンコ屋に学ぶ経済学』について 12月某日 晴れ

 宣伝みたいな話になってしまうのだが、拙著『パチンコ屋に学ぶ経済学』という本が売れているらしい。
 じつは、この本は07年に出版したものだ。
 そのときにもパチンコ業界の関係者の方々から連絡をいただいた。
 調子に乗って講演の依頼を受けたりもした。
 しかし、そのときよりもいま受けている問合せの方が圧倒的に多い。
 つまり、5年経ってようやく注目していただけるようになったのである。
 その1つとして、『パチンコ必勝ガイド』誌の取材を受けた。
『ガイド』といえば、パチンコ・パチスロを打つ人ならほぼ全員が知っているリーディングマガジンである。似た雑誌はほかにいくつもあるが、「やっぱりガイド」という人も多い。私もかつて読み込んだ。
 つまり、携帯でいうならドコモ、ケチャップでいうならカゴメのような存在が、パチンコ情報誌における『ガイド』であると勝手に思っている。
 取材で何をしゃべったのかは例によって忘れたが、優秀なライターと編集者がうまく記事をまとめてくれている。
 記事は年末年始にかけて発売している合併号に掲載されているので、コンビニに寄ることがあれば、ぜひご覧いただきたいと思う。
 それはさておき、この本が売れかたにはちょっとしたクセがある。
 書店ではなくコンビニでよく売れているのだ。
 この本は、書店ではあまり売れていないはずである。
 でも、コンビニで売れた。
 昨今コンビニにはいろいろな書籍が売られているが、売れ行きランキングでは、そのなかでも上から数えて何番目とか、もしかしたら1番上とか、とにかくそのくらいものすごく売れているという。
 私が販売戦略をつくったわけではないが、このような変化は私にとってものすごくうれしいことだ。
「本は書店で買う」のが当たり前の感覚だとすれば、結果として、それを少し変えることができた。それをイノベーションと呼ぶのではないかと、個人的には思うからである。
 コンビニでのお買い物といえば、「お弁当と飲み物とおやつを買って、せいぜい1000円」くらいではないか。省スペースを追求するには、需要をしぶとく読み込んで、並べる商品を厳選しなければならない。
 そのなかで、1,470円の本を並べてくれたコンビニ会社には、感謝ひとしおである。

他人のメシについて 11月某日 晴れ

 個人的には、人がどんな生活をしていようとまったく気にならない。
 他人が何を食い、どんなところに住み、どういう服を着ていたとしても、何とも思わない。知ったところで意味がない。
 だから、お宅訪問系の番組も見ない。レストランで隣の人が食っているもんを見て、「あれ、うまそう」と思うこともない。街角ファッションチェック的な記事も、美人のヌードである場合は別として、まず見ない。
 ところが、ふとしたきっかけで他人の食事をかいま見ることになった。
 例によって近所のマクドナルドでテイクアウトをした。
 しかし、家に着いてみると紙袋の中身がオーダーしたものとまったくちがう。
 頼んだのは、バーガー系を2つ(自分とカミさんの分)、ナゲット、コーラ、塩なしのポテトであったが、なかにはエビフィレオ、チキンフィレオ、サラダ、ファンタグレープ、Qooの白ぶどうジュースが入っている。どうやらテイクアウト待ちしていた人がほかにもいて、その人が持ち帰るはずの紙袋を手渡されたとも知らず、うきうき顔で持って帰ってきたというわけだ。
 こういう場合、「黙って食う」というのも1つの方法である。
 しかし、案外律儀な私は店に電話をして事情を伝える。
 店を責めるわけではない。ミスは誰にだってあるから、別になんとも思わない。ただ私は、ナゲットが食いたかったんである。
 結局、店員さんが注文したものを家まで届けてくれることになった。
 手元にある商品は全部食ってよいという。
 しかし、それはそれで困る。何しろ、名も顔も知らない紙袋の持ち主と私の食のセンスは、見事なまでにちがうからだ。
 まず、ナゲットがない。
 それだけでも信じがたいことなのだが、よく見れば1つとして注文したものがかぶっていない。
 私はいままで、えびフィレオもチキンフィレオも頼んだことがない。
 サラダがあることも知らなかったし、どういう心理状態でもファンタやQooを飲みたくならない自信がある。
「人の好みって、ちがうもんだね」
 あらためてそう感じる。
 エビフィレオとやらを食ってみるかとも一瞬思ったが、やっぱりやめた。何しろ私は、ナゲットが食いたかったんである。
 これがハンバーガーではなく服だったらどうなるだろう。
 黒いシャツが入っているはずの袋を開けて、黄色いパーカーが入っていたらどうするか。
 仮にパーカーの方が値段が高くても、やっぱり黒いシャツに替えてもらうだろう。
 衣食住に関する人のこだわりは案外根深い。急に変えるのはむずかしく、つい「いつもの」になる。ビッグマックと黒い服である。ようするに、習慣であり、ルーティンであり、安定志向だ。
 もし嬉々としてえびフィレオを食い、黄色いパーカーを着る人がいるなら、そういう人こそが、あらゆるものが変化するカオスな現代を生き抜けるように思う

質とコストの関係について 11月某日 晴れ

 質とコストは、一般的にトレードオフの関係にあるといわれている。
 質を高めようとすればコストが上がり、コストを抑えようとすると質が下がる。
 でも、本当にそうなのだろうか。
 この原則に従えば、作り手は質か価格のどちらかを選択しなければならない。買い手である客も、どちらかを重視するほど、どちらかを妥協し、あきらめなければならない。
 それでは、作り手にとっても買い手にとってもあまりにも夢がない。
 作り手は、よいモノ・サービスを安価で提供したい。買い手は、よいモノ・サービスを安価で購入したい。その基礎的な欲求を出発点に考えると、質とコストはトレードオフの関係にあってはいけないと思うのである。
 そんなことを考えていたら、あることに気がついた。
 たとえば、ある作り手が質の向上のために100がんばっているとする。その結果できあがった商品に100という値段をつける。
 この場合、「質の向上のために100がんばっている」というのは作り手当人の主観であるため、お客の視点で見れば、「80くらいじゃない?」ということもある。
 ならば、適正価格は80でなければならない。価格の決定権はお客が持っているのが健全な経済の仕組みであるはずだからだ。
 たとえば、ある営業マンが自分のお客さんを訪ねるためにA市とB市をまわる。別の営業マンも、自分のお客さんを訪ねるためにA市とB市をまわる。
 このときのコストを100とすると、「自分のお客」という概念をなくし、A市担当とB市担当にわければ、移動コストが減る。80になるかもしれない。
 そのような工夫なく、単純に「100です」といっているようなケースが多いのではないか。
 お客の視点でみると、私はあらゆるものが高いと感じる。
 どの店の何がを書くと怒られるから書かないが、タクシーは初乗り300円が適正だと思うし、映画はせいぜい800円だと思う。
 そう思うのには「貧乏だから」という理由も大きいが、「それ、いる?」「それ、ムダじゃない?」と感じることも大きな理由である。
 マクロに見れば、たしかにデフレは困る。作り手視点で見れば、100のものが200で売れる環境の方がよいに決まっている。
 しかし、デフレのせいにして、100のコストを80、60と減らす努力をないがしろにしているケースも多いのではないか。
「これ以上のコスト削減はできない」という人もいる。
 偉そうなことをいうようだが、そんな声を聞く度に、私は「この人にはセンスがない」と思ってしまう。

コンサルタントについて 11月某日 晴れ

 偶然に偶然が重なって、同時に3名のコンサルタントの方と仕事をしている。
 私は、コンサルタントという商売の人が好きである。
 彼らの商売は、表面上はアドバイスや提案や分析であるが、本質は考えることである。私も、職業分類上は考える仕事であるから、彼らの頭の中身には興味がある。考えることが好きな人は、考えている人が好きなものなのだ。
 一方で、彼らと接していて感じることもある。
 それは、「あえて少しむずかしく説明していないか」ということである。
 学者ほどむずかしくはない。
 芸術家ほど意味不明ではない。
 政治家ほどウソにまみれてもいない。
 でも、わかったようで、なんだかよくわからない気にさせられる。
「これって、こういうことでしょ?」と聞くと、たいてい「そうそう。まあ、厳密にいうと、ああいうことなんですけど」と補足がつく。
 それなら、「そうそう」ではない。「ちがうよ。こういうことじゃなく、ああいうことだよ」とならなければおかしい。
 もちろんコンサルティングという仕事は、経営にせよ教育にせよ複雑なものを扱うため、単純明快に説明できないことも多いはずである。それを差し引いても、やっぱりなんだかよくわからない気がして、後味がいまいちなのである。
 そこで、こういう機会もめったにないので、3人のうちの1人に率直に聞いてみることにした。
「不躾な質問ですみませんが、いま、あえて少しむずかしく説明しました?」
 すると、「ええ。だって、1から10まで話しちゃうと商売にならないでしょ?」という答えが返ってきた。
 つまり、確信犯である。わざとである。
 なぜそんなことをするのかというと、手の内を全部明かさないことで、「まだ何か持っている」と思わせることがコツの1つであるからだと教えてくれた。
 誰がそう教えてくれたかは指が裂けても書かないが、こういうことをすんなり教えてくれるところが素晴らしい。
 ちなみに、「手の内を全部明かさないことがコツなんですね」と聞いたら、「そうそう。まあ、厳密にいうと、それだけじゃないんだけど」と補足がついた。
 そういうところも、また素晴らしい。

ウソについて 10月某日 晴れ

 誰でもウソをつく。
 ただし、ウソひとつつくにもそれなりのアタマがいる。
 とっさのウソがすぐにばれるのは、十分にアタマを使っていないため。子どものウソがすぐにばれるのは、アタマのレベルが発達しきっていないからである。
 小説を読んでいるときに、あるいは映画を観ているときに、ふと興ざめするのも、どこかにウソくささを感じ取るからだろう。逆に言えば、没頭できる小説や映画は、完成度が高いウソである。作家や監督が十分にアタマを使ったということだ。
 取材やインタビューでも、ふと「あ、この人いまウソをついたな」「このエピソードにはウソが含まれているな」と感じるときがある。
 なぜ人はウソをつくのだろうか。
 理由は簡単で、「この相手なら、ばれないだろう」「見抜けないだろう」と思っているからだ。つまり、相手を騙せると思っているため。自分の方が相手よりも賢いと思っているからである。
 政治家がウソをつくのは、国民を見下しているため。テレビがねつ造するのは、視聴者に見抜けるアタマがないと思っているからである。
 ウソをつかれて頭にくるのも、ウソをついた相手を嫌いになるのも、「こいつには見抜けまい」と見下されたと感じるからである。アタマの良し悪しというのは、個人の尊厳や沽券に関わる問題である。怒って当然だろう。
「たくさんの人に、たくさんウソをつかれる」という人は、周囲にアタマが悪いと見下されている可能性が高い。
「自分にウソをつくやつはいない」という人は、アタマがよいと思われている可能性もあるが、ウソに気づいていない可能性もある。
 相手のほうがアタマがよいとわかっている場合には、ウソをつかない。
「自分のアタマなんてたいしたもんじゃないです」という謙遜の意識がある人も、ウソをつかないだろう。
 そういう人が、もう少し増えてもよいのではないか。
 誰でもウソをつく。
 しかし、それにしたって世の中にはウソが多い。

四面楚歌について 9月某日 晴れ

「四面楚歌」という言葉に照らせば、北を露、東を韓、南を中台に侵略されているなかで、空いているのは東である。
 なにしろ太平洋は広い。
 北西南の海が「レッド・オーシャン」だとすれば、東は「ブルー・オーシャン」である。
 しかし、この海原への船出を拘束する要因もある。TPPである。
 しかも、その原因はこちらにある。東の海原に船出することを、自国の民が躊躇し、反対もしている。この現状は一刻も早く打破しなければならないだろう。
 東の門を開けば、相手に攻め込まれる。
 そう心配する論もある。しかし、守り一辺倒の姿勢では結局攻め込まれる結果になることは北西南の例で実証済みだ。
 守るためには、攻めなければならない。
100歩踏み入れられても、101歩踏み入れる。そのような姿勢なくして、四面楚歌は避けられない。
 もっとも、世の中は立体的であるため、じつは四面ではなく六面である。つまり、地面と空がある。
 土地を守るためには、まずは外国に売ってはいけないという法律が必要だろう。貸すのはよい。運用させるのもよい。手数料を取ればよいからだ。しかし、売ったらそれで終わりである。
 空はどうなっているかというと、各国のLCCで「レッド・オーシャン」化しつつある。それらに支配されないためには、強力な航空会社を作る必要がある。JALにもANAにも、その他の国産LCCにも十分に国のお金を投資する。他国の空にもどんどん飛ばす。民間企業が正々堂々と営業活動を行えば、商圏という領土を拡げられる。
 目には目を、という言葉がある。
 しかし、実行支配、侵略、挑発といった方法でやり返せば、こちらも卑怯者に成り下がってしまう。
 歯にはハンマーを、という考え方もある。
 しかし、それはアメリカのお家芸であって、日本には向かない。
 では、どうするかといえば、「目には歯を」である。つまり、まったく別の手段で対抗する。商圏の拡大は、その1つだ。これこそまさに、資本主義・自由経済主義のなかで地位を築いた日本にとって有効な、侵略への対抗策だろう。そのさきには経済大国としての復活も見えてくるかもしれない。

不買について 9月某日 晴れ

「不買運動」というものがある。
 企業や国に対しての不満を、「買わない」という行為で表現する方法である。
 クラシックなこの方法を、いまなお中韓台が日本製の品々に対して、こちらはこれら国々の製品に対して行っている。
 向こうが「買わない」というなら、「ああ、そうですか」というしかない。買わないという人には売れない。あれこれいっても仕方がない。
 一方、こちらが中韓台の製品に対して不買運動をする場合には、その効果をきちんと把握しておく必要がある。
 その際にポイントとなるのが、中韓台の製品のほとんどが、現地の安い労働力によって生み出されているということだろう。物価の差や昨今の円高事情を踏まえれば、これら製品は買えば買うほどこちらにとって得である。
 そう考えれば、じつは不買は逆効果だ。
 たくさん買うほど現地の労働力を安価で使うことができるからである。
 また、マルクスにいわせれば、「資本家は労働力を搾取する」。ならば、これらの国々で生産された日本メーカーの品を買うほど、より多くの労働力を搾取できる。買い叩けばさらによい。
 買わなければ、相手は収入が入らずに困るだろう。ただし、こちらも安く買える機会を失うため、出費が増える。つまり、相手も困るがこちらも困る。
 一方、大量に作らせて買い叩けば、相手は困り、こちらは得をする。
「相手を困らせること」や「仕返し」が目的であるなら、後者を選択した方がよいのである。
 むろん、私は相手を困らせたいとも、仕返ししてやりたいとも思わない。
 争うことよりも、損しないことや得することの方が大切だと思うからである。
 金持ち喧嘩せず、という。
 その理由は、いかなる喧嘩も自分の損になることを知っているからである。
 貧乏臭い挑発など相手にしない。それが、世界有数のお金持ち国家である日本の品位なのではないか。

車と道路について 9月某日 晴れ

 車を運転している時に、いつも思うことがある。
 周囲に車も歩行者もいないなかで、赤信号で停まっている意味って何なのだろうということだ。
 とくに取材や打合せで帰りが夜遅くなった時や、ゴルフ場に向かう朝方などは、誰もいない道でじーっと停まっているのはバカみたいである。
 バカみたいだけど、私は案外ルールを守るのでじーっと待つ。
 ようやく青になって発車したあとで、いまのバカみたいに過ごした時間は何だったのかと思う。
 時代はエコだという。省エネだというもいう。
 ならば、「誰もいない場所でアイドリングせざるを得ないシステム」はムダであろう。
 もう1つ、道路工事をしている脇で、棒をぐるぐるまわしている人の存在もほとんど意味不明である。
 工事中であることは、見ればわかる。
 棒をぐるぐるやってないで穴堀り手伝ったほうが工事が早く終わるのではないかと思う。早く終われば渋滞も減り、ムダなアイドリングも減る。
 ついでにいうと、これは買い物などに行って駐車するときに思うことなのだが、なぜそろいもそろってバックで駐車するのだろうか。
 バック駐車は、出やすい。しかし、思い当たるメリットはそれくらいだ。あとは、すべからくデメリットであろう。
 たとえば、運転に慣れていない人にとっては、バックで入れるのに時間がかかる。時々、何度も切り返して車庫入れしている人がいて、待たされている。そのときも、このバカみたいな時間は何なのだと思う。
 バック駐車は、トランクに荷物を入れるのも手間である。
 車の全長を4メートルほどとすると、バックで駐車した場合にはいったん車の脇を素通りして4メートル歩き、荷物を入れてから2メートルほど戻って運転席に乗りこむことになる。計6メートル。
 一方、前進駐車(ヘッド・イン)の場合は、まず荷物を入れて、2メートル歩いて運転席に乗り込む。歩く距離が3分の1で済む。
 重い荷物を持って毎度4メートルも多く歩くなら、そのエネルギーを省エネしたらどうか。
 車はエネルギーを使う。
 だから、省エネの対象になる。
 しかし、車本体よりも、その周辺で垂れ流しになっているエネルギーもじつはたくさんある。そのエネルギーが、じつは案外でかいのではないかと思う。

OSとソフトと価値観について 8月某日 晴れ

 昔からアメリカのドラマが好きである。
 現在よく見ているのは、「ロイヤルペインズ」という医療ドラマ。舞台はNYの高級住宅地、ハンプトンズである。
 高級住宅地を舞台にしたドラマはほかにもいろいろあるが、ビバリーヒルズにしてもパームビーチにしてもハンプトンズにしても、描かれるアメリカ人のスーパーリッチというのはどれもよく似ている。
 おしゃれで、見栄っ張りで、社交的で、健康志向。わがままである一方、社会貢献が好きでもある。
 そういう人ばかりではないとも思うのだが、そういう人ばかりしか出てこないから、そういう人ばかりのような気もする。
「幸福な家庭はすべてよく似よったものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」というのは、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の書き出しである。
 自由が弾圧されていた19世紀のロシアでも、自由主義の典型である現代のアメリカの高級住宅街でも、「幸福な家庭」が「よく似よったもの」になるのは興味深いことである。
 ところで、ハンプトンズがあるNYのロングアイランドは、私がかつて住んでいたところである。
 残念ながら高級住宅街に住んでいたわけではないが、ティーンエイジの大半をそこで過ごし、後々の人生に大きく影響を及ぼしているはずの多くの〝初〟のことも、このころ、この場所で経験した。たとえば、初めての運転とか初めての自分の部屋とか初めてのライブとか、むろんあちら方面の初も多々含まれる。
 個人の思考や行動のパターンというものは、そういう初のものを、どういう状況で、どのように経験したかによって影響を受けるように思う。少なくともベースにはなっているはずである。
 だから私は、ときどき自分が「逆輸入品」であると思う。
 つまり、設計図の部分である遺伝子は日本製、ブランドである国籍も日本であるが、中身の一部はアメリカで作られている。
 あるいは、OSが外国製ということかもしれない。いまはそのOSに、日本製のソフトを入れて動いている。ソフトとは、たとえば価値観である。
 だからどうしたというわけでもないし、問題があるわけでもないが、いわゆる日本人的な価値観に、たまに違和感があるのもOSがソフトを認識できないからだろう。
 価値観は後乗せのソフトだから、いかようにも変えられる。勝手に変わることもある。
 しかし、OSはそれがむずかしい。
 グローバル化は、しばしば価値観の多様化であり、共有化だといわれる。
 しかし、それよりも重要で難しいのは、異なるOSを持つ人の互換性をどうするかではないか。

所有欲について 8月某日 晴れ

 家に関する本に携わった。
 買う方がよいか、借りる方がよいかというテーマの本である。
 私自身は、買っても借りてもどっちでもよいと思っている。買いたければ買えばよいし、買いたくないか、買えないなら借りればよい。そんなことは、自分で決めるか夫婦で話し合って決めるものだと思う。
 一方で、気づいたことがある。
 それは「何かを持ちたい」「所有したい」という願望の強さである。
 家を例にすると、買っても借りても支払う総額はほぼ同じになることは、もはや多くの人が認識している。買う、借りるの両方に、それぞれのメリットがありデメリットがある。だから、どっちでもよい。
 ならば「買おうかな」と考え始める動機も「買おう」と判断する決め手も、つきつめれば所有欲であろう。
 所有欲は誰にでもある。その欲望は、所有することでしか満たされない。
 つまり、1度「持ちたい」と思ってしまったら、その状態から「やっぱ、いらない」という状態に戻るのはかなり難しい。所有することによって生じるデメリットも、所有してからでないと見えなくなり、考えられなくなる。
 これは、じつは恐ろしいことである。
 なぜなら、欲望が理性に勝るということだからである。
 社会がそれなりにうまくまわっているのは、誰もが理性的に行動しようと心がけているからである。
 一方で、社会が〝それなり〟にしかうまくまわらない原因は、誰もが所有欲に取り憑かれる可能性を持っているからであろう。
 たとえば、モノやヒトやお金を独占したいと思うことが、たいていのトラブルの原因である。利権にまみれることも、二股をかけてゴシップ誌に叩かれることも、ローンで首がまわらなくなることも、本質的な原因は同じである。そのリスクを防ぐには、「持ちたい」という意識が生まれる可能性を、あらかじめ「いらない」という意識で埋めておく必要がある。
 あるいは、「いつでも持てる」「好きなときに所有できる」という自信で埋めておくこともできるだろう。
 裏を返せば、そういう自信がないから所有したくなる。所有することによって満足感を得たくなってしまうのではないか。
 幸い、私には欲しいものがない。その理由も、根拠のない自信で満ちあふれているからである。自信家は、こういうときに楽だ。
 多くの人にとって必要なのは、モノではなく、所有欲を制する理性でもなく、自信なのではないかと思う。

参加と不参加について 8月某日 晴れ

「おしくらまんじゅう」というものがある。
 私は幼稚園のころ、これが大嫌いだった。
「おしくらまんじゅう、押されて泣くな」
 誰かが泣くかもしれない可能性があるなら、最初からやらなければいいじゃないか。そう思った。
 同じような理由で、肝試しも嫌いだった。他人の肝を試すとはいかなる了見か、といまでも思う。
 残念ながら、当時の私には「おしくらまんじゅう」や「肝試し」を回避する術がなかった。
「やらないよ」「参加しないよ」。
 そう言ってはいけないと思い込んでいたのかもしれない。言う勇気がなかったのかもしれない。
 いまになって思うのは、このような子供時代の経験が、結果として「なんの得にもならなかった」ということである。
 やらない。参加しない。
 そういう選択肢は、誰もが持っているものである。
 持っているだけでなく、臆することなく行使できなければならない。
 ところが、世の中にはそれを白い目で見る風潮が根強い。
 たとえば、選挙に行けという人がいる。そんなものは、行ったって行かなくたってどっちだっていい、と個人的には思う。
 投票したい人、応援したい人がいないという人も多いはずである。にも関わらず誰でもいいから1票を入れろというのは暴論であろう。立候補したい人が勝手に立候補して、投票した人が勝手に投票する。政治なんてものはそれで問題ない。
 ニートやフリーターに対して、社会や労働や経済活動への積極的に参加を呼びかける声もある。しかし、他人に働けと言うのもおかしな話だ。
 もっとも、ニートやフリーターに対して、個々の未来をホントに心配している人はほとんどいないのではないか。社会が彼ら非・低生産層を好まないのは、年金や税金を払わなかったり、生活保護などのセーフティネットにかかる費用が、巡り巡って自分たちの負担になるからだろう。
 自分は辛抱している。しかし一方には楽している(ように見える)人がいる。そういう状態を社会は嫌う。だから四方八方から指摘する。
 しかし、放っておけばいいじゃないかと私は思う。
 公平で平等な社会とは、誰もが公平に負担し、平等に苦労することを指すのではない。誰もが公平に扱われ、平等に参加する(しない)権利を持つ社会のことである。
 ミクロな視点で見ても、自分よりも楽している人を気にするよりも、自分より努力している人を見習う方が得るものは大きい。

世間について 8月某日 晴れ

 都市部には近所づきあいというものが少ない。
 それはつまり、世間という概念が薄いということである。
 そもそも世間とは何かというと「自分を中心とした個人的な人とのつながり」といえるだろう。自分のまわりにできるものであるから、かんたんにいえば、人の数だけ世間は存在する。
 同じ場所に住み、同じことをしたとしても、自分にとっては世間体が悪く、カミさんにとってはたいしたことない、息子にとっては屁でもないといった違いが生まれるのも、それぞれの世間に個人差があるからである。
 ようするに個々が持つ世間と、その世間に対する感じ方の問題であるから、正解も不正解もない。
 都市部で暮らす人にとっての世間とは、その程度に重要なことだと認識しておけば、まずまちがいはないだろう。「世間の目が気になってしょうがない」という人も、都市部で暮らせばストレスが小さい。世間体を気にする必要性は、おそらく人口密度と反比例するはずである。
 では、個人が認識する世間に共通点はあるのだろうか。
 そこにつきつめていくと、世間は社会になる。社会とは、「客観的に見た人と人とのつながり」である。
 世間とのズレはいくらでも対処する方法があるが、社会とのズレはそう簡単ではない。なぜなら、社会は世間と比べて、範囲が広く、普遍的である。そのため、いまいる場所で社会的に不適合なことは、まったく常識が異なる場所にでも行かない限りおそらく不適合であるからだ。
 なぜそんなことを考えているのかというと、「世間」を意識するあまり「社会」を見る視力が著しく低下している例が多いように思うからである。
 たとえば、企業が丸ごと犯罪に手を染めるというのは、その社内にいる人たちの社内という世間の意識が強いからである。「原子力村」や「族議員」もその典型的な例であろう。宗教団体のなかでしばしば問題が起きるのも、暴走族が減らないのも、いじめがなくならないのも、すべからく世間を意識し、世間に流されるからだといえる。
「社会を変えよう」という弁をよく耳にする。たしかに、社会にも問題はある。しかし、現実には簡単でははない。
 一方「世間を変える」という発想を持つ人は少ないが、じつはこちらは簡単である。住む場所を変えれば世間は変わる。あるいは、換わる。働く場所を変えるのでもよいし、つき合う人を変えるのでもよい。その都度、自分のまわりに新しい世間ができあがる。
 自分の世間を定義するのは、つねに自分である。
 それを知っていることは、案外重要であると思う。

完成型について 7月某日 晴れ

 惣菜や刺身のパックやカップ麺などを買うと、小袋が付いていることがある。
 これが大嫌いである。
 理由は『どこからでも切れます』と書かれているにも関わらず、ほぼ確実に切れないからである。
 私は決して不器用な方ではない。どちらかといえば器用である。力は人並み、我慢も人並みにできる。つまり、身体的にも性格的にも小袋の端を切り取るのになんの問題もない。
 でも、切れない。
 私が切れないなら、子供や老人や女性はもっと切れないはずである。
 それよりも問題なのは、小袋を片手に「切れねえじゃねえか」とキレてから何年も経つけれど、いっこうに改善される気配がないということだ。
 そこで疑っていることがある。
 もしかしたら小袋の作り手の連中や、それを使う惣菜や刺身のパックやカップ麺の担当者が、これで〝完成型〟と思っているのではないかということである。
 さらに長いこと改善を待っているけれど、改善されないものがある。
 缶詰である。
 缶詰の何が問題かというと、まず開けづらい。プルタブをつけるという工夫がなされたことは高く評価するけれど、それにしても力がいる。
 繰り返しになるが、心身ともに健康な私が苦労するなら、子供や老人や女性はもっと苦労しているはずである。
 さらに、開けたふたと開け口が危ない。特に、私の好物であるツナ缶のように脂っこいものは、いつ手がすべり指をざっくりいったっておかしくない。私は案外親切だから、空き缶を洗ってから捨ててやろうかとも思うこともある。しかし、手を切りそうだからやらない。
 一説によれば、缶詰は誕生してから200年以上が経つという。中身はバリエーションが増えて充実した。しかし外身はほとんど変化がない。
 これも、現状が〝完成型〟だと思っている可能性が非常に高い。
「世の中は便利になった」という。しかし、「なった」ではなく「なっている」というのが基本姿勢だろう。
 モノも人も完成しない。永遠に完成しない。
 だからこそ、すばらしいのだと思う。

マックについて 7月某日 晴れ

 週に3回ほどマクドナルドを食べている。
 理由は、事務所から近く、安く、まずいものがないからである。
 個人的には、この3つが満たされていれば食事に求める条件として十分である。独立以来、グルメ誌から仕事が来ないのはなぜだろうとかねてから不思議だったのだが、こういう持論を平気でさらすからだと察しがついた。
 それはさておき、カミさんはマクドナルドのことをマクドという。関西圏出身の人にとっては普通のことであるらしい。
 しかし、やはりおかしいだろう。
 英語で書いてみると、McDonald'sである。どこかでひと区切りしなければならないのだとしたら、やはりMcDoよりMcの方が自然である。
「だてなおた」を「だてな」と呼ぶのは変だ。そう呼ばれても、私はおそらく返事しない。
 さらにいえば、メニューとの統一性である。
「マクド」とはいうけれど「ビッグマクド」とはいわない。それもやっぱり変である。
 そんなことを考えていたら、ドンキはどうなんだという思いにいたった。
 ドンキホーテは、ドン・キホーテである。したがって、どこかで切らなければならないとしたら「ドン」であるべきだが、そう呼ぶ人には出会ったことがない。「ドン」と言われたら、「うわ、おどかすな」ということになる。
 ドンキで区切るから、ドンキホーテがドンキ・ホーテだと思っている人もきっと多いはずである。もっとも、自らが「ドンドンドン、ドンキ、ドンキホーテ」と歌っているから、そう認識されてもしょうがないところがあるだろう。
 そのようなことが気になってしょうがないのは、まがりなりにも言葉に関わる商売をしているからだろう。
 賛否いろいろあるだろうけれど、私は略語が好きである。
 マクドもドンキも変だと思うけど、変なりに味がある。その味が好きである。略語があることによって表現の幅が広がるし、そこに日本語の妙があるとさえ思う。
「正しい言葉遣い」や「言葉の乱れ」といった指摘もわからないではない。
 しかし、「こういう言葉しか使っちゃいけません」というのもケチくさい。
 略語も新語も流行語も若者言葉も、もっと言葉で遊んでよいように思う。遊ぶことだって親しむ方法に1つには違いない。

達成感について 7月某日 晴れ

 心理学関係の本の翻訳をしていたら、「過去に経験した大きな達成感を思い出す」といった文章が出てきた。たしか、前向きな意思決定をするためのコツの1つというような文脈だったと思う。
 自分が書いた文章ではないから、内容についてどうこう考える必要はない。
 でも、ふと考えてしまった。
 そして、しばらく考え込んでしまった。
 自分にとっての「大きな達成感」がいっこうに思い浮かばなかったからである。
 あらためて思うのだが、世の中の人たちは「過去の大きな達成感」を簡単に思い出すことができるものなのだろうか。
 そもそも、そういう思い出を誰もが持っているものなのだろうか。
 たとえば「甲子園で優勝した」というなら「大きな達成感」と呼ぶに十分な経験といえるだろう。ギネスブックに載ったとか、5股かけて誰にもバレなかったといったことも達成感であるように思う。
 しかし、そんな経験をしたことがある人はほんのひと握りであろう。
 たいていの人の人生は、もっと抑揚の幅が小さいというか、わかりやすくいえば平々凡々としたもののはずである。
「志望校に合格したこと」や「課長になったこと」などは、はたから見れば達成感かもしれないが、当人にとっては「ようやく受験が終わった」「無事に課長になれた」という開放感や安堵の方が大きいかもしれない。
「家を持つこと」も1つの達成ではあるが、ならば、ローンを払い終わった時の方が達成感は大きいだろう。それを経験するのはたいていジジイになってからである。
 そう考えていくと、「達成感を思い出そう」という論は、少なくとも私には違和感がある。「大きな達成感」と呼べるようなもの、諸手を上げ雄叫びをあげるようなことなど、滅多にないし、一生起きないかもしれないと思うからである。人生で1回あるかどうかの大きな達成感を目標にして、人生が存在しているようにも思う。
 さらに違和感があるのは、このような論を世の中が素直に受け入れて、誰もが前向きな社会になることである。
 悩まず、後悔せず、つねに明るい人たちに囲まれて生きるのは、想像しただけで気持ち悪い。
「いつか大きな達成感が味わえるかもしれない」という期待と、「まあ、何も達成できない可能性もあるけどね」という苦笑いが共存しているくらいが、私にはちょうどよい。

七夕について 6月某日 晴れ

 スーパーマーケットの入り口に、短冊を下げた笹が飾り付けてあった。
 もうじき七夕である。
 なんの気なしに眺めていたら、「サッカー選手になれますように」や「背が伸びますように」といった無邪気な短冊にまじって、「世界が平和になりますように」というものを見つけた。小学2年生の書いた短冊である。
 小学校2年生にとっての「世界」とは、どのような世界なのだろうか。
 世界には200近い国があるが、まさか小学2年生がそのすべてを知っているはずがない。
 また、世界のどこかでいまも戦争が続いていることを、断片的には知っているかもしれないが、それも厳密な意味での「知っている」とはいえないだろう。2年生が本当に「知っている」のは、たとえばクラス内とか、せいぜい学区内のことくらいだからである。
 知らないものの平和を願っても、じつはあまり意味がない。
 知らないものにとっての平和がどういうものかがわからないからである。
 本当の意味で平和を考えるなら、まずは身の回りから始める必要がある。自分の足下が固まらなければ、他人の世話はできない。
 見ず知らずの他人である私からの、まったくもって余計なアドバイスであるが、2年生のナニガシくんにも、まずは身の回りの平和を考えてほしいと思う。
 クラスが平和になれば、いじめはなくなる。
 学区内が平和になれば、変質者も消える。
 言い方を変えれば、いじめがなくならないのは、クラスの平和もままならないなかで「世界」を語ろうとする教員のせいである。
 弱者が安心して夜道を歩けないのは、地域の平和をさしおいて「世のなか」を語ろうとする住民のせいである。
 ちなみにもうひとつ気になる短冊があった。
 同じく2年生が書いたもので「願いごとがかないますように」というものである。
 その「願い」を書くというコンセプトが伝わらなかったのかもしれないし、この年にしてすでに秘密主義なのかもしれない。
 いずれにせよ、子供はおもしろいことをする。
 普段目を向けないようなことについて考えるきっかけをくれる。
 その子供たちの「願い」が叶う「世界」を実現する責任を、我々大人が背負っている。そう思うと、仕事のやる気も増すというものである。

締め切りについて 6月某日 晴れ

 あまり考えたことがなかったのだが、最近の私は毎日なにかしらの締め切りがある。
「今日はなんの原稿を出すんだっけか」
 そう思って手帳を見返したところ、毎日が締め切り日という状態がずいぶん長く続いていることに気がついた。たまにはカミさんとどこかに出かけなければなるまい。自分でいうことではないが、物書き商売との結婚生活は結構つまらないはずである。締め切りづくしでもたいしてもうからないという現実を踏まえれば、つまらなさもひとしおであろう。
 それはさておき、ビジネスマンやサラリーマンと締め切りの関係はどうなっているのだろうか。
 私は会社員としての生活から離れて久しいので、最近の事情がよくわからない。納期、期限、月末、期末といったそれぞれの締め切りと、毎日のように向き合っているような気もするし、ほとんど気にしていない人ばかりのような気もする。
 いずれにせよ、締め切りがなければたいていの人は動かない。
 締め切りに関係なく動く人がいるとすれば、成功するのはきっとそういう人だろう。むろん、成功の定義も人それぞれだけれど。
 過日の取材で、製造管理をしている人が「遅れるのは言語道断。しかし、早ければよいというものでもない」とおっしゃっていた。いわゆるトヨタ生産方式の「ジャスト・イン・タイム」が大事ということである。
 確かに、製造や物流の現場では早く納品されても困る。置き場所を考えなければならないし、明日いるものは今日はいらない。
 一方、サービス業でも同じことがいえるのかもしれない。
 食べ終わった皿をなかなか持っていかないウェイターには飛び蹴りを食らわしたくなるが、食べ終わった瞬間に持っていこうとするウェイターにはカンチョーをくれてやりたくなる。
 日本の電車の運行が世界的に賞讃されるのも、遅れが少ないからではなく、早く着くこともなく、時間ぴったりだからだろう。
 時代の流れは早い。スピード感が求められる。そんなことはわかっている。しかし、それがすなわち「早いほどよい」という意味であるととらえている人も案外多いのではないか。

迷惑メールについて 6月某日 晴れ

 なにごとも考え過ぎはよくない。
 原稿も、つきつめようとして深入りしすぎると、わけがわからないものができあがる。ようするに、工夫のしすぎである。
 ところで、堅牢であるはずのセキュリティをかいくぐって、1日に何通もの迷惑メールが届く。そういうメールをちょっと読んでみるのが、じつは私の密かな暇つぶしである。
 アドレスを入手し、文章を考え、万一にもひっかかる人がいればそれを追っかけ……と考えると、もしかしたら普通に働いた方が楽で、もうかるんじゃないのか。
 そういう余計な心配をして気分転換をする。
 そこでふと感じるのが、迷惑メールの文面も工夫しすぎだということである。
 ここをクリックすると恥ずかしいのが見えちゃいます。
 それくらいシンプルな内容なら、もしかしたらクリックしちゃうかもしれない。
 しかし、最近はどういうのが多いかというと、たとえば、親族の誰々がどうで、その多額の遺産がどうで、処分するのも困るからという話がありつつ、自分の性癖なんかの話もあって、ようやく「お返事ちょうだい」となる。
 あるいは、このギャンブルの仕組みがどうで、こういう方法を考えついて、有名人の誰々もやっていて、こういう結果になったという話があって、「必勝法はここをクリックしてね」となる。
 いずれのケースも、まず長い。そして複雑すぎる。
 工夫しすぎ病の典型的な症状である。
 むろん、迷惑メールの送り主にアドバイスするつもりはない。
 しかし、工夫しすぎの状態から抜け出したいなら、いったん全部忘れて、原点にもどったほうがよい。
 私も、工夫しすぎてわけがわからなくなった原稿は、思い切って全部消去することにしている。中途半端に書き換えようとするからいつまでも現状打破できないということを知っているからである。
 ちなみに、ここでいう原点とは0である。
 世の中には「1からのスタート」という人がいるが、それではいけない。最初の1歩が、すでにまちがっている可能性がある。だから、1からではなく0。無から再出発なのである。
「楽してひともうけたい」と考えている人も、「最初の1歩」がまちがっている典型といえるだろう。現状を打破するには、0に戻るしかない。つまり、よけいなことを考えずにまじめに働きなさい、ということである。

特別扱いについて 5月某日 晴れ

「自分だけは特別」と考えるのは、おそらく人情なのだろう。
 人間個体として捉えれば、DNAはそれぞれだし、生まれ育つ環境もちがう。悩みもちがえば、明日の予定もちがう。だから〝特別〟である。しかし、世の中すべての人がすべからく〝特別〟だから、「自分だけ」ではない。正しくいえば、「自分は特別。でも、自分以外も特別」である。
 なぜこのような勘違いが起きるのかといえば、ひとことでいえば世間のせいだろう。まわりにチヤホヤされる。だから、「特別」だと思ってうぬぼれる。傲慢になる。謙虚さを失う。古典的な日本的価値観によれば、これは恥ずかしいことである。
 ところで、ある仕事の打ち合わせで、
「お客様に『自分は特別』と思っていただけるサービスを提供しよう」
 ということになった。個々に合わせたサービスをオーダーメイド感覚で提供することが「お客様のため」というわけである。
 しかし私はひねくれている。だから、「真の意味ではお客様のためにならない」と思っている。
「あなたは数あるお客様の中の1人に過ぎません」
 特別扱いせずにそう教えたほうが、勘違いをさせず、恥をかかせず、失敗を予防するという意味で、長い目で見れば「その人のため」になるはずだからである。
「自分は特別。でも、自分以外も特別」という当たり前のことを、知っているようで知らない人が増えたのは、もしかしたら、お客を特別扱いし、おだて、ひいきし、虚栄心を満たすことを〝サービス〟と呼ぶようになったからではないか。それなら、GDPの7割以上がサービス業から生まれている日本で、自分が特別だと勘違いする人が増えて当然である。
 下町から人情を取ったら、ただの汚い街である。
 では、日本人から謙虚さを取ったらどうなるのだろう。
 結構本気で心配である。

徹夜について 5月某日 晴れ

 年を取るとできなくなること、というものがある。
 これは、脳、つまり思考法の問題としてできなくなるものと、身体、つまり体力的な問題でできなくなるものにわけられるだろう。
 たとえば、楽して稼ごうとか、一発当てようなんていうことは、段々と考えなくなる。楽していては稼げない現実とか、一発当たる確率などを理解するからである。脳が成長するから、無謀なことはしなくなる。できなくなる。
 身体の方の例としては、わかりやすいのが徹夜だろう。
 たまたま仕事が重なったこともあって、先週は週の3日が徹夜であった。少し前なら3日ぶっ続けで起きていても何の問題もなかったが、いまはだめである。身体が重たくてしょうがない。目がかすみ、方が凝り、腰が痛い。
 物書き商売は頭でやるものだと思われがちだが、実は身体が資本である。腰が痛いだけで、原稿を書くスピードは大きく鈍化する。脳は起きている。集中力もある。でも、脳のなかにある文章を原稿という形としてアウトプットするところでつまづく。
 エンジンに問題がなくても、パンクしている車は走れない。
 ハードディスクは正常でも、キーボードが壊れているパソコンは役に立たない。
 ようするにそういうことである。
 私は昔から徹夜が好きである。睡眠に充てる時間を起きて活動して使うことで、すげえ得した気分になるからである。実際、活動時間が増えれば、より多くのことを実現できる。
 しかし、ある程度年を取ってからの徹夜は、翌日のパフォーマンスが悪くなるため、実際のところ活動時間を増やすことにはならない。翌日の時間を「前借り」しているだけである。前借りが愚策であることは、国債の償還で首が回らなくなっている財政をみればよくわかる。
 個人も国も、成長ののびしろが大きい若いときなら、前借りすることによって効果的に成長できるかもしれない。
 しかし、人も国も年を取る。
 健全な成長を持続していけるかどうかは、結局のところ、「将来のものをいまのために使う」という意識から、「いまあるものを将来のために使う」という意識にシフトチェンジできるかどうかであるような気がしている。

◎活字離れについて 5月某日 晴れ

 活字離れが進行している。
 そんなことはいまに始まったことではないと思うのだが、どうかとすると「だから社会全体の知力が低下しているのだ」というような論調が耳に入ってくることもある。
 私がいうようなことでもないのだが、活字をたくさん読むことと賢くなることとは、深い関係があるようで、じつはない。知識を蓄えるためのツールは、新聞や本でなくとも、ネットでもテレビでもよいからである。
 もっとも、賢い人が本や新聞を多く読むという傾向はある。
 しかし、それを逆転させて、活字好きが賢い人であるとはいえない。A=BであってもB=Aではない。
 わかりやすい例を挙げよう。
 東京には代官山というおしゃれな街がある。おしゃれな人たちが好んでこの街に住む。しかし、代官山に住んでいる人がおしなべておしゃれかといえば、そんなことはない。おしゃれに興味のない人がたまたま代官山に住んでいることもある。しゃれっ気などとうに捨て去ったじじい、ばばあも住んでいる。「おしゃれな人=代官山に住む」であっても「代官山に住む人=おしゃれ」ではないわけだ。
 活字と知力の関係もこれと同じ。少し前、「本が知層になる」というコマーシャルをよく見た。これも、A=BだからB=Aだと勘違いした典型的な悪例であろう。
 活字媒体が売れてくれれば、書店や出版社や新聞社といった「身内」がもうかる。まがりなりにも活字商売に身を置く立場として、身内をもうけさせることが私の任務の1つであるから、活字ファンが増えてくれたほうがうれしいのは事実である。
 しかし、そのための手段として、「活字を読めば賢くなる」という安易で、間違ったアプローチは断じて取るべきではないと思う。ウソをついてはいけない。活字ファンを増やし、その結果として身内をもうけさせる唯一の正しい手段は、魅力ある活字商材を創ることだけである。
 ところで、新しい本を書いた。
 すでに本文を脱稿済みであるから、あとは文字校正をして、まえがきなんかを書けば、近く書店に並ぶ予定である。
 おもしろいから読んでほしい。

◎先輩という存在について 4月某日 晴れ

 学生のころから、体育会系のシステムというものに縁がない。
 上級生だから従う、先輩のいうことが絶対という環境に生きる気分は、いったいどのようなものなのだろうか。おそらく、まったくおもしろくない王様ゲームに参加させられているようなものだろう。
 では、なぜ下級生は耐えるのだろうか。
 理由は、数年後には自分が王様になれると考えるためだろう。
 服従しなければならない現状は辛い。しかし、いまシステムが崩壊すると、やがて王様になれるチャンスもなくなる。
 どちらかを選べといわれれば、チャンスを取る。我慢する。
 そういう理由なのだろうと思う。そういう理由しか思いつかない。
 我慢して上級生になれば、まあ悪い気分ではないはずである。王様の権利を放棄するインセンティブも小さい。なぜなら、自分がいま王様であれるのは、服従に耐えた結果であるからだ。
 王様の期間が楽しければ、永遠にその時代が続いてほしいと思う人もいるかもしれない。そういう人が、社会でも先輩風を吹かすのではないか。出身校や年齢にこだわる人も案外多い。
 いわゆる年功序列という制度が社会に根強いのも、同じような理屈だろう。年功序列に疑問を持っている人は多い。しかし、壊してしまうと、自分が将来的に手にできるはずの特権もなくなる。具体的には、昇進や昇給である。それは困るから、「おかしいよね」「そうだね」くらいの会話をする程度にとどめておく。働かない先輩が自分より給与が高くてもよしとする。その先輩に飲みに連れて行かれ、自慢話を聞かされ、あげく割り勘だったとしてもしょうがないこととする。それがよいことと考えるかどうかは、個人の問題だろう。私は会社員でないからどうでもよい。
 1年は8760時間である。そのうちの4分の1を寝て過ごすとすると、実質的な活動時間は6570時間である。
 仮に「1つ上の先輩」よりも1日平均3時間ずつ多く活動すると、6年で6570時間となるため、時間的な意味での経験値は同じになる。4時間多く活動するなら4年半で同じになるし、時間の使い方を工夫して効率を高めれば、もっと短期間で追いつき、逆転できる。
 私が会社員なら、きっと先輩の飲みの誘いを断って、そこで自慢話を聞かされる4時間で別の活動をするだろう。

◎価値観について 4月某日 晴れ

 コンビニまでタバコを買いに行く道すがら、昔でいう公民館のような場所でエコフェアというものをやっていた。
 駐車場の案内係が出るほど人が集まっているので、お金でも配っているのかと思ってのぞいてみたら、お金ではなく、ある場所ではゴーヤの苗、別の場所ではエコバッグを配っていた。いずれも、並んでまで欲しいものではないので、行列を横目に会場を出た。帰宅してから、念のためにカミさんに欲しかったかどうか確認すると、エコバッグは欲しくない、ゴーヤは100円で買えるからいらないそうである。夫婦円満の秘訣は価値観が合うことだとつくづく思う。
 ところで、価値観というのはおもしろい。
 価値観とは、文字の通り価値のとらえかたを指すわけだが、あるモノを、私は不要だととらえ、別の人は並んででも欲しいととらえる。当たり前で日常的なことだが、不思議なことでもある。
 価値観には個人差があるが、マクロに見ればメインストリーム、つまり、多くの人に共通するものもある。
 軍国主義だったころは、強い国を作るのがよいことだという価値観に、おおかたの人が共感、共鳴した。
 その後、敗戦を転機に、経済的に豊かな国を作るのがよいことだということになった。バブル崩壊によってその価値観が覆ると、今度は自分らしく働くのがよいということになった。いまは周知の通り、環境のことを考えて活動するのがよいということになっている。
 ふりかえってみて気がつくのは、軍国主義は敗戦、経済発展はバブル崩壊、自分らしさが貧困層の増加に結びついたように、「この価値観が正しい」と思い込みすぎると、調子に乗ってしまい、失敗するということだ。
 人は、調子に乗りすぎると、おもしろくなるか、おかしくなる。
 同じことが、おそらくエコについてもいえる。
 フェア会場までクーラーをかけた車でやってきて、エコバッグや苗をもらって帰るというのは、ほとんど冗談のような行動である。これくらいのことなら、「おもしろいねえ」で済む。しかし、そこに疑問を持たない人が多すぎて行列になるというのは、価値の判断基準がおかしくなりつつある兆しではないだろうか。
 環境について何かやろうと思うのであれば、実は何もしないのがもっともよい。エコバッグを配ることで、車に乗って大勢の人が動くことからもそれがよくわかる。
 特に現代人は、お金も時間もないから、ムダにエネルギーを消費したりはしない。家でゲームとネットに没頭している若い人たちは、存在そのものがエコである。そんな人たちをわざわざエコ化しようとすることが非エコであるということに気づくことが、調子に乗りすぎないためのポイントであろう。
 どの時代にも、その時の主流である価値観に疑問を投げかける人がいる。軍国主義のころには非国民といわれた人たちがその一例だが、冷静だったのは彼らである。
 ものを書く人の姿勢も、基本的にはそうあるべきだと思う。

◎力関係ついて 4月某日 晴れ

 ひとりで商売をしていると、会社のような組織のなかでどのようなことが起き、どんな問題が起きているのかがいまいちよくわからない。社内恋愛、社内不倫、出世競争、セクハラ、パワハラなどさまざまなことを、雑談を通じて間接的に見聞きするのが、私のような商売の立ち位置である。
 ある方に聞いた話。
 その方が勤務する会社の取引先には、思い通りの成果をあげられない下請けを、罵倒し、ののしる人がいるという。バカ、クズ、カスといったことを、電話やメールで言うのだそうである。いわゆるパワハラである。すごい人もいるものだ。
 そんな話を聞いた数日後、別の方から、ある会社には、部下を叱る際にイスなどの備品を蹴飛ばす人がいるという話を聞いた。これも、一般にはパワハラに分類される行為であろう。刑法によれば、罪に問われる可能性もある。
 私のように雑な人間ならば、バカと言われたらバカはてめえだと言い返すまでである。イスを蹴られたら、机を投げ返す。
 しかし、世の中のほとんどの人は繊細である。デリケートである。バカといわれて傷つく人もいるし、たいていの人はイスを蹴られればすくんでしまう。じっさい、バカ、クズ、カスと罵倒された人は、会社を辞めてしまったらしい。不運な話である。
 下請けや部下というのは立場的に「いじめ」られやすい。
 社会には「いじめる方はもちろん悪いが、いじめられる方にも問題はある」といった論調もあるが、そんなものはウソである。弱肉強食の動物ですら、生き延びるための競争はするが、いじめはやらない。このふたつには、明確で、踏みあやまってはならない境界線がある。パワハラとはつまり、線引きができるかどうかの問題であろう。

◎グローバル化について 3月某日 晴れ

 専門商社をまわっている。
 いまさら雇ってもらおうというわけではない。仕事の内容を取材して、わかりやすく紹介するという記事を書くためである。
 こういう仕事は楽しい。ふだん使ったり、食べたりしているものが、どういう経路で自分の手元に届いているのかがよくわかる。商品の流れのことを商流というが、モノとお金と情報の流れの全体像がつかめる。たとえば、私が着ているもののほとんどはアメリカやイタリアのメーカーのものであるが、原料の生産地は南米で、縫製はアジアだったりする。世界を巡りながら1枚の服としての形になり、たまたま私の手元に届く。そこに運命は感じないけれど、スケールの大きさは感じる。
 ところで、モノとお金と情報に、人を加えたあらゆる要素を国内外でやり取りすることを、一般に、グローバル化という。そのような話題の中では、しばしば「自分の商売はドメスティックだから、グローバル化とは無縁だ」という意見をきく。
 しかし、一歩引いてかんがえれば、それは大きな誤解であろう。
 グローバル化とは、簡単にいえば、「明日からパリで生計を立てられるか」という話である。パリじゃなく、ロンドンでも、アブダビでも、アブジャでもよいのだが、ようするに、仕事や生活環境をまったく変えて、生きていく能力が問われる社会変化のことだ。
 自分よりも優れた仕事をする人が外国から入ってくれば、市場原理により、失業する。民間企業に限らず、一部の地域では、外国人が公務員職に就くこともできる。仕事を追われ、家賃が支払えなくなれば、家を出なければならない。では、国内で別の仕事が見つかるかといえば、絶対ではない。その延長線上では、海外で仕事を見つけ、海外で生活するという選択肢に迫られるかもしれない。
 したがって、自分の商売がドメスティックであることと、自分がその商売を続けられるかどうかは、関係が深いようで、じつは浅い。
グローバル化する社会では、自分はここに住み、こういう商売をするという「こちら側」だけの話ではなく、世界の誰かが、自分の代わりを務め、自分がここにいられなくなるという「あちら側」が関係する話であるわけだ。そこに気がついているかどうかによって、おそらく10年後の自分の生き方が変わるはずである。

◎1年経ったことについて 3月11日 晴れ

 震災から1年が経った。
 この1年で、海外の国や地域などから、175億円以上の寄付金が寄せられたそうである。民間からは、個人や企業などを合わせて、アメリカからだけでも500億円以上の寄付が寄せられている。善意は金額の問題ではないけれど、多いほど、助かる人も多いはずである。非常にありがたいことである。
 だいぶ前のことになるが、バラエティ番組で、アメリカのある芸能人が、多額の寄付をしてくれたという話をあつかっていた。ところが、その番組の出演者が、もうかっているわりには少ない、というようなことをコメントをしていた。性格と口は悪いが耳だけはよい私が、自分の耳を疑ったのは生まれて初めてのことである。こういう人がテレビに出ているのかと思うと、つくづく情けなくなった。私がテレビをあまり好きでないのも、こういう発言が垂れ流しにされるからである。
 いつからか、学力的な意味でのバカな人を出演させて、おかしな発言を笑ったり、珍回答をおもしろがるクイズ番組などが増えた。そういう動きを憂う人もいる。しかし、モノを知らないことは褒められたことではないけれど、バカを売りにするのは、ひとつの処世術ともいえる。美人を売りにする人がいるなら、バカを売りにする人がいてもよい。仕事ととらえれば、恥ずべきことでもなかろう。
 本当に恥ずべきこととは、他人の好意や善意を理解しないことである。ケチをつけるなんてことは言語道断である。
 もっとも、問題は、ケチをつけた出演者当人よりも、そのような人を起用し、失言を放っておき、それはそれでよしとしてしまう制作者のほうだろう。
 人には、さまざまな考え方がある。バラエティが、多様性を意味する言葉であることを踏まえれば、いろいろな人の、それぞれの考え方を寄せ集めた玉石混淆が、バラエティ番組の本質であろう。しかし、それは善意を嘲笑したことの免罪符にはならないし、なってはならない。
 震災から1年が経った。
 亡くなった方々の無念と、いまなお、家に戻れない方々の苦労を背負って、我々は社会を作り直していくや役目を負っている。それは、単純にハードを作り直せばよいという話ではない。

◎壊れることについて 3月某日 晴れ

 壊れたからモノを買い替えるということが、少なくなったように思う。
 消費者として、これは嬉しいことである。パソコンや携帯やカバンやラジオが壊れることは、私にとって致命傷である。文字が打てない物書きほど役に立たないものはない。
 むろん、それは消費者の視点であって、メーカーとしては困る。壊れることも、買い替え要因のひとつであるからだ。マクロに見れば、モノが長持ちするほどお金の動きが滞るわけだから、経済的にも困るはずである。個人にとっての最適が、全体にとっての最適とはならない例の典型であろう。
 実感として思うことは、消費者がモノを買わないのは、壊れていないものを買い替える必要がないからである。必要がないのだから、お金は自然と貯蓄にまわりやすくなる。その結果、たとえば、「消費者がモノを買わなくなった」とか「貯蓄する人が増えたから景気が悪くなる」といった論調が生まれる。しかし、いらないものは、いらない。いらない人に「買え」というのは、ほとんど押し売りであろう。人が貯蓄をするということは、ケインズのころから明らかになっている。
 さらにいうならば、お金を使わずに貯蓄しているということは、たいていの場合、銀行に預けているという意味である。この物騒な時代に、タンスに隠している人など、そうはいない。
 ならば、問題は、消費者ではなく、銀行だろう。学者筋や評論家筋や政治家筋は、「消費者が買わないからではなく、銀行が貸さないから景気が悪いのだということは百も承知のうえでいわせていただきますけれど」、という前置きをしてから、消費者の消費性向に言及すべきではないか。
 お金を貯めるということは、個人にとって、大変な努力を要するものだ。我慢と辛抱の結晶といってもよい。そういう背景を無視して、簡単に、かつ無神経に、使え、買えというべきではないだろう。
 お金の使い方についての口出しは、基本的に、よけいなお世話である。

◎名所の名前について 2月某日 晴れ

 まもなく、東京ゲートブリッジが開通して、東京スカイツリーが完成する。いずれも拙宅から近い位置にある。暇で暇でどうしようもなくなったら、一度くらいはいってみようかと思う。あまり乗り気でないのは、橋は揺れるし、塔は高いからである。ようするに、怖いのである。
 それはそうと、気になってしょうがないことがある。
 ゲートブリッジにしてもスカイツリーにしても、なぜカタカナを使うのか、ということだ。
 先日、スカイツリーの中国語訳にあたる「天空樹」が、さきに中国内で商標登録されたという話があった。「天空樹」がよい名前かどうかは別として、こういう愚行をみすみすと許すのも、カタカナで名付けると決めつけているからではないか。カタカナの方が欧米人に覚えてもらいやすいと主張する人もいるが、そんなはずもなかろう。コンシェルジュと言える人たちが、テンクウジュと言えないわけがない。
 愛国心や日本語への偏愛から、そのようなことを思うわけではない。新名所にカタカナを使う例は、いまさらの話ではなく、ガーデンプレイスとかレインボーブリッジとかミッドタウンとかヒルズとかアクアラインとか、いろいろある。すでにいろいろあるのだから、たまには日本語で攻めてみてはどうかという話だ。「ことぶき荘」よりも「ハッピーレジデンス」のほうがかっこよいという発想から、そろそろ一歩踏み進めてはどうか、という話でもある。
 カタカナを使用せずに生活することはむずかしいし、無理だろう。ハンバーガーはハンバーガーであるし、マネジメントはマネジメントである。でも、ゲートブリッジがゲートブリッジであり、スカイツリーがスカイツリーである必然性はみあたらない。
 いずれも、建築物としてはすばらしいものである。日本のハード面での技術は世界トップクラスである。それだけに、名前を付けるというソフト面の力不足は、残念である。まあ、ライターという肩書きで商売をしている私がいうようなことではないのだけれど。

◎フライパンについて 2月某日 晴れ

 1年に1つか2つ、よい商品だなあと感心するものと出会う。
 今年はさっそく、セラミックのフライパンというものに感心した。
 料理しない人にはどうでもよい話だと思うが、なにがよいのかというと、こびりつきがほとんどないから、洗いやすい。熱伝導がよいから、すぐに熱くなる。この2点だけみても、すでにエコである。水もガスも少なくて済む。
 私は、すでに十分に貧乏だから、貧乏くさいエコが嫌いである。
 その意味で、このフライパンは、使い手が満足でき、結果として省エネにもなるという点が優れている。すでに十分に貧乏でも、1つ3000円程度だから、もう1つ買おうとも思っている。
 ところで、購入したフライパンは、京セラの商品である。そんな話をしていたら、ある人から、「京セラってそんなものもつくってるんだ」というような反応が返ってきた。「そんなもの」もなにも、京セラは、京都セラミックという名前で誕生したセラミックの会社なのであるが、その方にとっては、京セラといえば携帯電話というイメージがあったらしい。
 携帯であろうとフライパンであろうと、製品が評価されているというのはすばらしいことである。もともとがなんの会社であれ、最近どんなものを作っている会社であれ、評価の対象となるのは製品というアウトプットでしかない。
 そうかんがえれば、商売では、なにをやってもよいし、なにをやらなくてもよい。その点は、おそらく個人の仕事においても同じだろう。なにに挑戦してもよい。ポテンシャルは無限である。むろん、挑戦しない自由もある。
 私はたまに、人それぞれに100億円くらいの貯金があるというようなことを考える。つまり、それくらいのポテンシャルを、人それぞれが持っているということだ。ただし、通帳とはんことカードと暗証番号は手元にない。それをさがすことが、なにかに挑戦するということである。見つけられれば、いくらでもお金持ちになれるし、見つけられなければ、1円にもならない。見つけられるかどうかは、人生という限られた時間との勝負でもある。
 可能性をお金に喩えるのは、下衆だと思う人もいるかもしれない。しかし、そう考えると、すこしワクワクする。
 さて、今年はなにに挑戦しようか。
 すくなからずやる気が刺激されるのも、よい商品に出会うことの1つの効果である。

◎規則について 1月某日 晴れ

 性格的な問題だと思うのだけれど、私には、自分で決めた規則がたくさんある。そして、それらに忠実である。
 待ち合わせ場所には10分前を目指して赴く。原稿は締め切りの1日前までに仕上げる。打診された仕事は断らない。酒を飲む日は、水、土、日曜日。年下と美人にはおごる。
 こういうものは、決めてしまうほうがじつは楽である。
 もっとも、これらは自分の規則であるから、相手が遅刻してきたり、年上の人がおごってくれなかったとしても、どうこう思うわけではない。ただ、相手が自分をその程度に大切に思っているのだな、と判断する基準にはする。判断基準は、性格の一角をなすものである。つまり、これは性格的な問題である。
 規則正しいことがよいことかといえば、一般にはそうとらえる向きがあるが、そんなことはない。というのも、規則そのものが正しいとは限らないからである。
 そこで思うのが、消費税についてである。
 今年はきっと、消費税を何%まで引き上げることにするかを決めることになる。ようするに、消費税に関する新しい規則をつくる。
 消費税の議論になると、決まって出てくるのが、あの国は10%だ、北欧は20%だという外国の話である。
 何となく説得力がありそうなこの話も、規則そのものが正しいとは限らないという一例だろう。
 酒を毎日飲むと決めている人がいれば、週1日と決めている人がいるように、消費税5%の国があれば、20%の国もある。横並びにして比較できるものではないし、どちらかに合わせるべきものでもない。
 そもそも、「あちらがこうやっているから、うちもそうしよう」というのは、隣の家の子が塾通いを始めたからうちも、とか、同期のあいつが家を買ったから俺も、という発想と同じである。そこでは、自分にとっての塾通いや家を買うことの有効性が検証されない。みんながいじめていたから、僕もいじめに参加したという理由を許すのかどうか、という話にも通じる。
 人は人、自分は自分。うちはうち、よそはよそ。
 よそは国民から10%も20%も消費税を取るという。しかし、我が国では取らない。だから、日本人でよかったでしょ。
 消費税議論に決定的に欠けているのは、そういう視点ではないだろうか。

◎学ぶことについて 1月某日 晴れ

 年が明けてから、このページを通じて、立て続けに新規の仕事の打診をいただいた。
 時間がないことを理由にして更新をさぼっていたのだが、メールは毎日見ております。廃業したわけでも、死んだわけでもないということを、あらためてここで明記しておきます。ひきつづき、お仕事の打診もお待ちしています。
 さて、打診のうちの1つが、電子書籍の案件であった。
 このような相談は、昨年からの通算で3つめになる。案件の内容は微妙に異なるが、私の姿勢は決まって、「前向きに検討するし、積極的に関わる」である。なぜなら私は、電子書籍の普及と発展を応援しているからである。
 打診してくれた方々から話を聞いて気づいたことは、電子書籍というものを「わかっているつもり」になっていたということだ。
 わかっているつもりになるということは、咀嚼せずに飲み込むということである。噛まないわけだから、消化に悪い。消化器系が丈夫な若い人なら、好奇心が消化してくれる。しかし、中年は消化できずに、どんどん腹にたまっていく。やがて、よくわかっていないことで腹がふくれ、新しいものを受け付けなくなる。
 では、なぜ「わかっているつもり」になるのだろう。
 おそらく、ものごとのとらえかたが、若者が直感的であるのに対して、中年が直観的であるからだろう。
 直感とは、感性をもって直接的にとらえるということだ。だから、自分のものになる。一方の直観は、経験でものごとをとらえることをいう。この経験が、「わかっているつもり」の原因になる。
 若い人ほど勉強が必要である。そうかんがえる人もいる。
 しかし、新しいものを理解し、使いこなすために、勉強しなければならないのは中年のほうであろう。
 繁華街以外でオニーサンと呼ばれる機会が減り、もしかしたら自分が中年の部類に入るのではないかと気づいたところで、遅まきながら、生涯学習の意味がすこしわかった気がしている。

◎ライフプランについて 1月某日 晴れ

 LCPについて考えている。
 LCPという言葉にピンとくる人はいないだろう。なにしろ、ついさっきつくった言葉だからである。何の略かといえば、Life Continuity Plan。継続性を意識したライフプランのことである。
 BCPという言葉は、知っている人が多い。Business Continuity Plan、すなわち、事業継続計画のことである。その生活版、あるいは人生版だと思っていただければわかりやすいだろう。
 事業を安定的に行っていくためには、災害や事故などを想定して、必要最低限の資源で運営していくための計画や、早期に復旧するための計画が必要である。個人の生活においても、災害や事故などによるインパクトは無視できない。食料はどうする。連絡はどうする。資産はどうする。明日からの生活はどうする。そういった視点を取り入れたライフプランが、LCPだ。
 じつは、従来のライフプランには、そういう視点がなかった。ゼロではないけれど、継続性と関わるのは保険くらいなもので、結婚、出産、住宅購入といったイベントを、平和で安全な環境のなかで実現していくことを主眼としていた。平和で安全な環境では、予定と実現が結びつくかどうかはお金の有無による場合が多いから、従来のライフプランにおけるリスクは、お金に関することがたいはんであった。ライフプラン≒マネープランであったといってもよいだろう。
 むろん、LPに災害や事故といったリスクを取り入れたほうがよいと思ったのは、震災があったためである。生活にお金は必要だけれど、お金で生活は取り戻せない。働けばお金は稼げるけれど、働く場所がなくなることもある。その意味で、お金の有無は、生活の継続性の下位概念と位置づけられる。経済的な安定が、すなわち生活の安定を約束するものではない。だから、LCPをかんがえましょう、というわけである。
 具体的な方法としては、夫婦で携帯のキャリアを分けるとか、オール電化を疑うとか、クラウドを活用するといったことがたくさんかんがえられる。その多くは、震災で犠牲になった方々、被害に遭われた方々が教えてくれているものであり、彼らから学び取らなければならないことである。
 その意味で、明日や未来のかんがえかたを、ドラスティックに変えなければならないのが、いまなのではないかと思う。近いうちに、LCPをテーマとした本を著したい。

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ライター 伊達直太

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